【大歌舞伎】歌舞伎の歴史・まとめ年表⑪

日本は伝統を大切にする国です。雅楽・能楽・文楽・歌舞伎。大きくカテゴライズしても、この4大ジャンルに分類できます。この中でも、1番歴史が浅いのですが、世界中で最も認知度が高いのがKABUKIです。庶民の娯楽としておよそ400年前に誕生してから、昭和40年には重要無形文化財に認定され、平成21年にはユネスコから世界無形文化遺産に登録され、現在まで続いています。

ラスカルさん
今回も「まとめ」だね!
パンダくん
うん!この時代は関東大震災があったりして大変だったんだ!
レッサーさん
そうだね!松竹がどんどん芝居小屋を吸収していったんだね!

 





 


 

さて。この時代関東大震災があり、東京は未曽有の危機に陥りました。それは歌舞伎界も同じこと。

今でいう「買収」は聞こえがあまり良くないですが、白井松次郎・大谷竹次郎兄弟による松竹株式会社が、経営難に陥っていた多くの芝居小屋を買収します。それまで芝居小屋の経営は座元(中村勘三郎・市村羽左衛門・守田勘弥)が行っていました。

しかし、明治維新が起こり、時代の流れ自体が変わっていくと、松竹のような「経営のプロフェッショナル」が経営するほうが適切でした。事実、各地の芝居小屋に属す歌舞伎役者、東西の歌舞伎役者が揃うことで舞台が豪華になり、観客も増えました。

また、分派活動が増えたのもこの時期です。常磐津は江戸時代に三味線方岸澤家の分派、明治期には日本舞踊・花柳流から若柳流が誕生などしていましたが、さらに、観世宗家から梅若流が、清元宗家からは梅派が分派したのが特色と言えます。

 

それでは、この時代の流れを見ていきましょう。

 


 

1904年(明治37)

初代市川左團次、没。

六代目常磐津文字太夫が、初代常磐津林中と和解。

常磐津『武悪・澤瀉十種の一つ』が初演される。

 


 

1906年(明治39)

白井松次郎、初代中村岩次郎とかたい提携のもと、道頓堀中座での興行を成功させ、近畿における足がかりを築いた。同年のうちに京都南座を買収する。以後、大阪朝日座、同文楽座(1909年)、東京新富座(1910年)、大阪堂嶋座(1911年)、東京歌舞伎座(1913年)、大阪角座(1917年)、大阪中座(1918年)を次々と手中に収める。

初代常磐津林中、没。

常磐津『文福茶釜(昔噺宝の釜)』が初演される。

 


 

1907年(明治40)

常磐津『常磐緑』が初演される。

常磐津『墨塗(墨塗女)』が初演される。

常磐津『俄仙人』が初演される。

 


 

1908年(明治41)

常磐津『東都獅子』が初演される。

 


 

1909年(明治42)

白井松次郎、義侠心から人気の低迷していた人形浄瑠璃(文楽)の経営権を譲りうけ、保存と振興に尽力する。

常磐津『千歳の影』が初演される。

 


 

1910年(明治43)

常磐津『身替座禅花子)・新古演劇十種の一つ』が初演される。

 


 

1911年(明治44)

常磐津『楠公(楠公桜井の訣別)』が初演される。

 


 

1913年(大正2)

東京へ進出した松竹歌舞伎座を手中に収める。その第1興業は、五代目中村歌右衛門、十五代目市村羽左衛門、十一代目片岡仁左衛門、二代目市川左團次、七代目市川中車(当時は八百蔵)、二代目実川延若(当時は延二郎)、三代目中村雀右衛門(当時は芝雀)と、東西の名優が揃う

市村座の経営権を取得していた田村成義が、若手俳優の六代目尾上菊五郎と初代中村吉右衛門を育て、彼らをはじめとした一座(菊吉時代)での興行が人気を博す。

 


 

1915年(大正4)

常磐津家元に養子入りした鑛之助が、三代目常磐津小文太夫を襲名。

 


 

1918年(大正7)

のちの八代目常磐津文字太夫が生まれる。

 


 

1921年(大正10)

観世流。京都の片山家から養子に入った左近元滋が相続して二十四世宗家となった。宗家の権威も旧に復し、免状問題で二世梅若実に対して強硬な主張が行われるようになったが、交渉は難航し、梅若実・梅若万三郎兄弟および分家六世観世華雪が独立して梅若流を創設するに至る。

(のち1954年には代替わりした梅若実も能楽協会の斡旋で観世流に復帰し、二十数年にして梅若流は消滅した)。

一方、二十四世観世元滋はきわめて政治的な手腕に優れ、梅若派に復帰を呼びかけるとともに、流儀の統一をはかり、流勢の伸張に意をつくした。さらには家ごとに差の大きかった謡の統一をはかるべく、大成版謡本を企画・刊行した。

 


 

1922年(大正11)

五代目清元延寿太夫と、三味線方の三世清元梅吉(後の二世清元寿兵衛)とが不和となり、梅吉は一門の弟子を伴って清元宗家(高輪派)から独立し、清元流梅派を創立。

 


 

1923年(大正12)

関東大震災発生。東京中のほとんどの劇場が被災。

 


 

1925年(大正14)

藤間勘翁(二代目藤間勘右衛門)、没。父は初代藤間勘右衛門。七代目市川團十郎に入門し、藤間金太郎を名乗る。父の死後、振付師に転向し二代目藤間勘右衛門を襲名。一時期西川扇蔵の養子となり六代目西川扇蔵を名乗るが明治4年に戻る。九代目市川團十郎に重宝され、歌舞伎座の振付師として活躍し、藤間流に全盛期をもたらせる。養子七代目松本幸四郎に三代目勘右衛門を譲ったあとは、藤間勘翁と改名。大藤間浜町藤間とも呼ばれ「素襖落」「二人袴」「お夏狂乱」などを振り付けた。

 


 

1926年(大正15)

六代目常磐津文字太夫が、二代目常磐津豊後大掾を襲名。

九代目常磐津小文字太夫が、七代目常磐津文字太夫を襲名。

 


 

1927年(昭和2)

市村座が松竹傘下となる。

第一期常磐津協会が発足。七代目常磐津文字太夫が会長となり、二代目常磐津豊後大掾六代目岸澤古式部が相談役となる。

 


 

1928年(昭和3)

二代目市川左團次による初の海外公演(ソビエト)が行われる。

七代目常磐津文字太夫が東京音楽学校(現東京藝術大学)の御大典記念にて「祝言式三番叟」を奏楽堂で御前演奏する。

 


 

1930年(昭和5)

帝国劇場が松竹傘下となる。東西の歌舞伎俳優が全て松竹の専属となる。

六代目尾上菊五郎により制定された日本俳優学校で、のちの八代目常磐津文字太夫が学ぶ。

 


 

1931年(昭和6)

三代目藤間勘右衛門(七代目松本幸四郎)が勘兵衛を名乗り、藤間宗家勘十郎家との間に争いがおこる。翌年、すぐに白紙に戻された。

 


ラスカルさん
なるほど!松竹の「白井松次郎・大谷竹次郎」兄弟の松竹株式会社が、どんどん芝居小屋を買収していくんだね!
パンダくん
そう!でも、いわゆる敵対的買収ではなく、時代の波に翻弄されて経営困難に陥っている芝居小屋を存続させて行こうとしたんだ!
レッサーさん
うん!歌舞伎界における救世主、いわゆるホワイトナイトだね!

 





レッサーさんの歌舞伎入門「大歌舞伎」のコーナー! 日本の伝統芸能で一番有名な歌舞伎! 日本人ならキチンと知っておきたいよね!

それでは、次回をお楽しみに!しば~ら~く~!

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