【大歌舞伎】歌舞伎の歴史・まとめ年表④

日本は伝統を大切にする国です。雅楽・能楽・文楽・歌舞伎。大きくカテゴライズしても、この4大ジャンルに分類できます。この中でも、1番歴史が浅いのですが、世界中で最も認知度が高いのがKABUKIです。庶民の娯楽としておよそ400年前に誕生してから、昭和40年には重要無形文化財に認定され、平成21年にはユネスコから世界無形文化遺産に登録され、現在まで続いています。

ラスカルさん
今回も「まとめ」だね!
パンダくん
うん!いよいよ「常磐津節」が誕生するよ!
レッサーさん
うん!「現在の歌舞伎」の形が次第に整っていくね!

 





 


 

さて。人形浄瑠璃(現在の文楽の元)と大いに関係を持ってきた歌舞伎が浄瑠璃作品を広く取り入れ、歌舞伎自体も芸術性が増していきました。

そうすると音楽面でも大きなエポック(新時代)を迎えます。豊後節から生まれた常磐津節の台頭です。

豊後節は「文金風(宮古路豊後掾の髪型や長羽織などを真似て流行したスタイル)」と言われ、あまりの人気に心中する若者が多くなり、結果、幕府から弾圧を3度も受け、迫害されてしまいます。

しかし、豊後節ブームの時、宮古路豊後掾は71歳、高弟の宮古路右膳(のちの初代常磐津文字太夫)は22歳です。当時の演奏家たちは現在のアイドルのようなものでしたから、この一大豊後節ブームの立役者は宮古路右膳当時の「初代常磐津文字太夫」であったと容易に推測できます。

それでは豊後節禁止の上に成り立った『常磐津節(音曲の一ジャンル)』、そして『流派としての常磐津』の軌跡を辿っていきましょう。

 


 

1745年(延享2)

宮古路加賀太夫が脱退。のちに新内節へとつながる(富士松薩摩掾→鶴賀新内)。

宮古路園八が脱退。のちに宮園節へとつながる(二代目園八→宮薗鸞鳳軒)。

 


 

1746年(延享3年)

宮古路文字太夫37歳。豊後掾七回忌に際して浅草寺境内に宮古路豊後掾の慰霊碑を建立。

三代名作の一つ「菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)、竹田出雲・並木千柳・三好松洛・竹田小出雲の合作」が大阪竹本座で初演(人形浄瑠璃)。すぐさま京都中村喜世三郎座で初演(歌舞伎)。

 


 

1747年(延享4)

文字太夫・38歳。宮古路姓を改め関東文字太夫と名乗るが北町奉行から禁止。同年11月「二代目市川團十郎初代澤村宗十郎初代瀬川菊之丞」が揃った「三千両の顔見世(中村座)」で常磐津文字太夫の狼煙をあげ、常磐津を創流。

元祖出雲こと初代竹田出雲が死去。あとは親方出雲とのちに呼ばれる二代目竹田出雲に引き継がれる。

三代名作の一つ「義経千本桜(よしつねせんぼんざくら)、二代目竹田出雲・三好松洛・並木千柳の合作」が大阪竹本座で初演。

 


 

1748年(延享5)

初代常磐津文字太夫・39歳。弟弟子である初代常磐津小文字太夫(前名・宮古路小文字太夫)が独立して富本節を興す。のちに清元節へとつながる。

三代名作の一つ「義経千本桜」が歌舞伎にうつされる(伊勢の芝居)。

三代名作の一つ「仮名手本忠臣蔵(かなてほんちゅうしんぐら)」が大阪竹本座で初演。すぐさま歌舞伎にうつされる(大阪嵐三五郎座)。

 


 

1749年(延享6)

富本豊志太夫(元・初代常磐津小文字太夫)が受領し「富本豊前掾藤原敬親」となる。

 


 

1751年(宝暦1)

並木宗輔が死去。その絶筆作「一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)」が大阪豊竹座で初演。

 


 

1752年(宝暦2)

十四世観世宗家織部清親の子で十五世観世元章の弟である観世清尚が、兄・元章が十一代将軍徳川家治の若い頃から能楽の指南を務めたという実績から観世流分家を認められる。能楽四座一流に次ぐ地位を認められ、幕府の演能にも出演する資格を得、観世銕之丞家の初代とされる。

 


 

1753年(宝暦3)

常磐津文字太夫・44歳。市村座での「鐘入妹背俤」の出語りで大好評を博す。

「一谷嫩軍記」が歌舞伎で初演(江戸守田座・中村座)。

並木正三が「けいせい天羽衣」で舞台の三間四方をせり上げるなど、舞台機構にさまざまな工夫を凝らし始める。

長唄「京鹿子娘道成寺(きょうがのこむすめどうじょうじ)」初演。初代杵屋弥三郎作曲、藤本斗文作詞。

 


 

1754年(宝暦4)

二代目市川海老蔵(二代目團十郎)、門弟(実子とも?)の二代目松本幸四郎を養子とし、四代目市川團十郎を継がせる。四代目市川團十郎の実子(幸蔵)が三代目松本幸四郎を襲名。

 


 

1755年(宝暦5)

のちの四代目鶴屋南北が生まれる。

 


 

1756年(宝暦6)

二代目竹田出雲、没。

初代西川扇蔵(千蔵または仙蔵)、没。

 


 

1758年(宝暦8)

並木正三「三拾石艠始(さんじっこくよふねのはじまり)」で舞台を何度も廻す転換を見せる。以前にも存在した「廻して転換する方法」は、この時初めて舞台の下を掘り下げ、奈落の下に張られた網を引いて転換する、という大掛かりな方法がとられた。《廻り舞台》のはじまりとなる。

 


 

1760年(宝暦10)

富本豊前掾藤原敬親が、再び受領「富本筑前掾」となる。

 


 

1764年(明和1)

豊竹若太夫(越前小掾)が死去。人形浄瑠璃界に暗雲が立ち込め始める。

五代目松本幸四郎が生まれる。

 


 

1765年(明和2)

豊竹座の経営権が人手に移る。

常磐津『蜘蛛の糸』が初演される。

 


 

1768年(明和5)

初代常磐津文字太夫の相三味線・初代佐々木市蔵没。

 


 

1769年(明和6)

常磐津鐘太夫が兼太夫(のちの二代目文字太夫)と改め、初代文字太夫の脇語りに抜擢される。

初代藤間勘兵衛、没。初めは中村伝九郎の門弟であったという。弟子に二代目藤間勘兵衛二代目西川扇蔵など。

 


 

1770年(明和7)

四代目市川團十郎、実子の三代目松本幸四郎に五代目團十郎を譲り、自らは二代目幸四郎に戻った。

 


 

1771年(明和8)

竹本座が完全に閉じ、歌舞伎芝居の小屋となる。

 


 

1773年(安永2)

常磐津文字太夫・64歳。市村座「錦敷色義仲」を最後に引退。隠居名を松根亭松寿斎とする。

常磐津兼太夫、守田座「明櫻旅思出」で初タテ語り。

 


 

1774年(安永3)

常磐津『景勝団子』が初演される。

 


 

1775年(安永4)

舞踊の名手「三代目坂東三津五郎」が生まれる。

 


 

1776年(安永5)

源蔵(のちの四代目鶴屋南北)、初代桜田治助の門に入り、金井三笑、並木五瓶、中村重助、増山金八らに師事し、下積み時代が30年ほど続く。

五代目岩井半四郎が生まれる。

 


 

1777年(安永6)

のちの初代清元延壽太夫が生まれる。

 


 

1778年(安永7)

四代目市川團十郎没。

舞踊の名手「三代目中村歌右衛門」が生まれる。

常磐津『善知鳥(紅葉傘糸錦色木)』が初演される。

米沢藩では、上杉治憲(上杉鷹山)が金剛流宗家の金剛三郎を隠居していた8代藩主重定の元に招いている。

 


 

1780年(安永9)

常磐津『布袋(色映紅葉章』が初演される。

 


 

1781年(天明1)

初代常磐津文字太夫没。享年72歳。

 


ラスカルさん
なるほど!こうしてみると、初代常磐津文字太夫が歌舞伎の演奏を勤めていた時代には、、
パンダくん
そう!それまで優位だった人形浄瑠璃が名手を失い、徐々に繁栄を失っていってしまったんだね!
レッサーさん
うん!「スター」の有無が、そのジャンルの繁栄につながると言っても過言ではないよね!

 





レッサーさんの歌舞伎入門「大歌舞伎」のコーナー! 日本の伝統芸能で一番有名な歌舞伎! 日本人ならキチンと知っておきたいよね!

それでは、次回をお楽しみに!しば~ら~く~!

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