【大歌舞伎】歌舞伎の歴史・まとめ年表③

日本は伝統を大切にする国です。雅楽・能楽・文楽・歌舞伎。大きくカテゴライズしても、この4大ジャンルに分類できます。この中でも、1番歴史が浅いのですが、世界中で最も認知度が高いのがKABUKIです。庶民の娯楽としておよそ400年前に誕生してから、昭和40年には重要無形文化財に認定され、平成21年にはユネスコから世界無形文化遺産に登録され、現在まで続いています。

ラスカルさん
今回も「まとめ」だね!
パンダくん
うん!現代の歌舞伎のスタイルがどんどん確立されていく時期だよ!
レッサーさん
うん!時代の節目に大きなことが起こるたびに、成長・進歩していくんだね!

 





 


 

さて。元禄歌舞伎から現在の歌舞伎のスタイルが徐々に確立されていきます。同時に人形浄瑠璃の世界とも交わっていき、芸術性も増していきます。それでは歴史を年代順に追っていきましょう!

 


 

1715年(正徳5)

国性爺合戦(こくせんやかっせん)が人形浄瑠璃で初演(近松門左衛門作)。

 


 

1716年(正徳6)

初代芳沢あやめ、役者評判記「三ヶ津惣芸頭」で高い評価を受ける。

国性爺合戦が歌舞伎に取り上げられる(京都・大阪)。

第8代将軍徳川吉宗の享保の改革が始まり、江戸の歌舞伎界は大打撃を受けるが、正月には必ず曽我狂言を上演するなど興業システムが完成される。

 


 

1717年(享保7)

国性爺合戦が江戸三座で競演されるようになる。以降、人形浄瑠璃の新作がすぐに歌舞伎化されるようになる。

 


 

1718年(享保8)

歌舞伎十八番の1つ「外郎売(ういろううり)」が初演される。

 


 

1720年(享保5)

容姿顔貌は十人並みで声はしゃがれて低かったことから廃業していた初代瀬川菊之丞が3年ぶりに復帰。かつての地味さはなくなり、艶やかな役者ぶりで、その芸が認められ次第に評判となる。

 


 

1721年(享保6)

二代目市川團十郎が「千両役者」と呼ばれ大スターとなる。

 


 

1722年(享保7)

十五世観世元章(1722年〜1774年)、徳川家重・徳川家治二代にわたる能師範を独占し、他方で京都進出を完了し絶頂期を迎えた。のちに元章は、弟織部清尚(後に十七世宗家)を別家して観世織部家を立て、四座の大夫に準ずる待遇を獲得させた。

 


 

1723年(享保8)

都国太夫半中、師が没したので都路国太夫と改名し独立。

竹田出雲・松田和吉の合作した「大棟宮曦鎧(おおとうのみやあさひのよろい)」を近松門左衛門が添削し、複数人が戯曲を書く「合作制度」の完成度が高まった。

人形浄瑠璃では、一人遣いが三人遣いになり、より人間に近い演技が可能となった。

 


 

1725年(享保9)

近松門左衛門が死去。初代竹田出雲が狂言作品を書くようになる。

 


 

1727年(享保12)

歌舞伎十八番の1つ「押戻(おしもどし)」が上演される。

観世清尚(十七世観世宗家。観世銕之丞家の祖)が生まれる。

 


 

1728年(享保13)

初代芳沢あやめ引退。

初代瀬賀菊之丞、京・市山座「けいせい満蔵鑑」の「無間の鐘」で名声を博す。

 


 

1729年(享保14)

初代芳沢あやめ没。

 


 

1730年(享保15)

都路国太夫、宮古路豊後と改名し豊後節(多くの豊後系浄瑠璃の本家本元)を創始。

初代瀬川菊之丞、江戸へ下り「三都随一の女方」と讃えられる。

 


 

1731年(享保16)

豊後節、豊後掾のスタイルを真似た「文金風」が大ブームとなるが、江戸で豊後節が禁止(1度目)されてしまう。宮古路豊後71歳・宮古路右膳(のちの常磐津文字太夫)22歳。

のちの二代目文字太夫が生まれる。

 


 

1732年(享保17)

宮古路豊後、高弟である宮古路右膳を伴い名古屋に進出する。

歌舞伎十八番の1つ「景清(かげきよ)」が初演される。

 


 

1733年(享保18)

宮古路右膳(駿河屋文右衛門)が、宮古路文字太夫と改名。24歳

夏。名古屋の「闇の森(くらがりのもり)」にて、日置の畳屋伊八と飴屋町花村屋抱え遊女おさんが心中を成し、未遂に終った事件が起きる。

 


 

1734年(享保19)

宮古路豊後が「おさん伊八の心中事件」を題材に「睦月連理椿(むつきれんりのたまつばき)」を書き下ろし、名古屋広小路・黄金薬師で初演し、大評判*となる。掾号を受領して宮古路豊後掾橘盛村(みやこじぶんごのじょうたちばなのもりむら)となり、大劇場である江戸中村座に進出する。

*宮古路文字太夫はワキ。25歳。

初代瀬川菊之丞が「風流相生獅子」を上演。「石橋(しゃっきょう)ものの源流」となる。

 


 

1735年(享保20)

借金返済で破綻し休座していた森田座の控え櫓として、二代目河原崎権之助が森田座代興行権を引き当て、河原崎座を復興。

二代目市川團十郎、門弟の市川升五郎に三代目團十郎を譲り、自らは二代目市川海老蔵(初代團十郎の幼名が初代海老蔵)を襲名する。

松本七蔵が二代目松本幸四郎を襲名。

 


 

【享保年間】

上方から下った坂田兵四郎が新風を吹き込み、冨士田吉次が音楽的な幅を広げ、江戸長唄が確立した。同時に黒御簾(くろみす)音楽が整備され始める。従来は女方のみが舞踊を踊っていたが、この頃から立役の舞踊も増えていった。

 


 

1736年(元文元年)

宮古路文字太夫、3月の市村座「小夜中山浅間巌」で立語りとなったが、町奉行より風紀を乱すとの理由で、豊後節は弾圧を受け全面禁止(2度目)。豊後掾76歳・文字太夫27歳。

 


 

1737年(元文2)

歌舞伎十八番の1つ「関羽(かんう)」が上演される。

 


 

1738年(元文3)

江戸での舞台を弟子にまかせ、自身は再び上方に戻り、宮古路豊後掾自身は上方(京阪)の劇場で活躍する。

 


 

1739年(元文4)

江戸町奉行水野勝彦によって、浄瑠璃太夫の名を出すこと、稽古場の看板をあげること、文金風を真似ること等が禁止され、豊後節が非常に厳しい大弾圧(3度目)を受ける。豊後掾79歳・文字太夫30歳。

人形浄瑠璃では「ひらかな盛衰記」が初演。傾城「梅が枝」が、手水鉢を使っての無間の鐘を演じる場面(四段目)は、初代瀬川菊之丞の「無間の鐘」の演技を写したものとされる。

 


 

1740年(元文5)

宮古路豊後掾、没。文字太夫31歳。

歌舞伎十八番の1つ「七つ面(ななつめん)」が初演される。

 


 

1741年(寛保1)

歌舞伎十八番の1つ「毛抜(けぬき)」が初演される。

三代目市川團十郎「毛抜」の初演時に没。享年22歳。

のちの五代目市川團十郎が生まれる。

 


 

1744年(延享元)

初代瀬川菊之丞、「百千鳥娘道成寺」に出演。「道成寺ものの源流」となる。のちに初代中村富十郎が「娘道成寺」を踊るにあたり参考にした。

 


ラスカルさん
なるほど!人形浄瑠璃の作品を即座に輸入しだしてから、どんどん芸術性が増していったんだね!
パンダくん
そう!黒御簾なども出来上がって、現在の歌舞伎スタイルができあがっていくね!
レッサーさん
うん!「石橋もの」や「道成寺もの」の原点が初演されたのも、この時代の特色の1つだね!

 





レッサーさんの歌舞伎入門「大歌舞伎」のコーナー! 日本の伝統芸能で一番有名な歌舞伎! 日本人ならキチンと知っておきたいよね!

それでは、次回をお楽しみに!しば~ら~く~!

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