【大歌舞伎】歌舞伎の歴史⑱ 大正・昭和の歌舞伎界と常磐津

日本は伝統を大切にする国です。雅楽・能楽・文楽・歌舞伎。大きくカテゴライズしても、この4大ジャンルに分類できます。この中でも、1番歴史が浅いのですが、世界中で最も認知度が高いのがKABUKIです。庶民の娯楽としておよそ400年前に誕生してから、昭和40年には重要無形文化財に認定され、平成21年にはユネスコから世界無形文化遺産に登録され、現在まで続いています。

ラスカルさん
いよいよ今回は大正・昭和だね!
パンダくん
うん!江戸から現在までにいろいろあったね~!
レッサーさん
そうだね!時系列に考えると、何かのイベントに絶えず変化してきたんだね!

 





 


 

明治維新は、日本中を揺るがした大変大きなイベントです。伝統芸能にもその余波が関係し、能楽は「武家の式楽からの脱却」、歌舞伎は検閲制度による「庶民の娯楽からの脱却」という異なる結果を生み出しました。

現在では共に、重要無形文化財・世界遺産として肩を並べているのは周知の事実ですが、江戸時代までは「格が違う」芸能だったのです。七代目市川團十郎が能の安宅を研究し、現在でも人気作品の「勧進帳」を歌舞伎十八番の1つとして作り上げましたが、江戸時代の観世宗家はこの芝居を見て「これが安宅か」と鼻で笑ったそうです。

ちなみに能楽はシテ方・ワキ方・狂言方・囃子方などに分かれますが、シテ方の五宗家「観世・宝生・金剛・金春・喜多」のうち最も大きく、歴史があって、格式高い「観世流の宗家」です。当時は「所詮、河原者の物真似狂言だろう」と軽んじていたのは容易に想像が出来ます。

しかし、その能楽も明治維新によって激震が走りました。逆に、政財界の容認と接触し、検閲制度を巧みに踏み台にした名経営者十二代目守田勘弥と、明治政府からの意思を巧みに利用して芸術性を向上させた九代目市川團十郎、そして写実性をブラッシュアップさせて散切物をつくり上げた五代目尾上菊五郎、さらに役者としての才能に加え、明治座経営などを巧みに行った、初代市川左團次ら「團菊左」という名優。そして「松竹株式会社」を創始した「白井松次郎・大谷竹次郎兄弟」の登場。歌舞伎は時代の荒波に乗りながら、多くの重要人物たちを巻き込み、その価値を上げていきました。

明治の三名優が鬼籍に入った後、この大正・昭和時代に活躍した俳優には、七代目市川中車五代目中村歌右衛門六代目尾上梅幸十五代目市村羽左衛門七代目松本幸四郎十一代目片岡仁左衛門初代中村雁治郎二代目市川左團次二代目市川猿之助、さらに若手花形の六代目尾上菊五郎、初代中村吉右衛門らがいます。当時の俳優は歌舞伎座と、新築の帝国劇場に二分され、若手の六代目尾上菊五郎初代中村吉右衛門(菊吉)は市村座で人気を上げました。

また、大正時代はルネッサンスの時流に乗り、座付狂言作者ではなく外部の劇作家による文芸的新作が次々に生み出されました。これを「新歌舞伎」と言います。

 

それでは「大正・昭和期」では、現在に至るまでにどのような出来事が起こったのかを、常磐津の歴史と共に考えていきましょう。

 

 

1913(大正2)

東京へ進出した松竹が歌舞伎座を手中に収める。その第1興業は、五代目中村歌右衛門、十五代目市村羽左衛門、十一代目片岡仁左衛門、二代目市川左團次、七代目市川中車(当時は八百蔵)、二代目実川延若(当時は延二郎)、三代目中村雀右衛門(当時は芝雀)と、東西の名優が揃う。

市村座の経営権を取得していた田村成義が、若手俳優の六代目尾上菊五郎と初代中村吉右衛門を育て、彼らをはじめとした一座(菊吉時代)での興行が人気を博す。

 

1915(大正4)

常磐津家元に養子入りした鑛之助が、三代目小文太夫を襲名。

 

1918(大正7)

のちの八代目常磐津文字太夫が生まれる。

 

1923(大正12)

関東大震災発生。東京中のほとんどの劇場が被災。

 

1926(大正15)

六代目常磐津文字太夫が、二代目常磐津豊後大掾を襲名。

九代目常磐津小文字太夫が、七代目常磐津文字太夫を襲名。

 

1927(昭和2)

市村座が松竹傘下となる。

第一期常磐津協会が発足。七代目常磐津文字太夫が会長となり、二代目常磐津豊後大掾、六代目岸澤古式部が相談役となる。

 

1928(昭和3)

二代目市川左團次による初の海外公演(ソビエト)が行われる。

七代目常磐津文字太夫が東京音楽学校(現東京藝術大学)の御大典記念にて「祝言式三番叟」を奏楽堂で御前演奏する。

 

1930(昭和5)

帝国劇場が松竹傘下となる。東西の歌舞伎俳優が全て松竹の専属となる。

六代目尾上菊五郎により制定された日本俳優学校で、のちの八代目常磐津文字太夫が学ぶ。

 

1932(昭和7)

九代目市川團十郎追遠興行で、五代目中村歌右衛門、初代中村雁治郎、十五代目市村羽左衛門、六代目尾上梅幸、七代目松本幸四郎、二代目市川左團次、六代目尾上菊五郎、初代中村吉右衛門、七代目澤村宗十郎、七代目坂東三津五郎、二代目市川猿之助という豪華出演陣による舞台が成功し、九代目市川團十郎・五代目尾上菊五郎の偉業を称える「團菊祭」が始まる。

 

1934(昭和9)

七代目常磐津文字太夫、歌舞伎座に於いて二代目豊後大掾の追善演奏会を開催。口上を市川三升(十代目市川團十郎)、六代目尾上菊五郎、七代目坂東三津五郎、四代目市川男女蔵(三代目市川左團次)が述べて、二代目花柳壽輔(壽應)が「老松」で出演した。

 

1937(昭和12)

日中戦争勃発。戦時下でも歌舞伎興行は行われる。

 

1939(昭和14)

第二次世界大戦勃発。戦時下でも歌舞伎興行は行われる。

 

1940(昭和15)

七代目常磐津文字太夫、「定本常磐津全集(全12巻)」を刊行。常磐津普及部の顧問となる。

 

1941(昭和16)

七代目常磐津文字太夫、関西常磐津協会を発足し初代理事長となる。

 

1945(昭和20)

ポツダム宣言受諾。終戦。焼け残った東京劇場で歌舞伎の興行が行われる。焼け野原の日本橋檜物町家元宅が弟子たちによって、いの一番に再建される。初代中村吉右衛門七代目坂東三津五郎から献花を受ける。

*以降、戦後の歌舞伎は「菊吉」が二大系統となり、七代目尾上梅幸、二代目尾上松緑、十一代目市川團十郎による「菊五郎劇団」、六代目中村歌右衛門、八代目松本幸四郎(初代白鷗)、十七代目中村勘三郎の「吉右衛門劇団」が、戦後歌舞伎復興の旗手となる。

 

1946(昭和21)

七代目常磐津文字太夫、第2次常磐津協会を設立、初代会長に就任する。

 

1947(昭和22)

含まれる表現が危険思想に結びつくと上演禁止になっていた歌舞伎演目が、フォービアン・バワーズの尽力により次々に解禁され、豪華出演陣総出での「仮名手本忠臣蔵」の通し上演が行われる。

のちの九代目常磐津文字太夫が生まれる。

 

1948(昭和23)

四代目常磐津小文太夫、十代目小文字太夫を襲名する。

 

1950(昭和25)

歌舞伎が重要無形文化財の認定を受ける。

 

1951(昭和26)

戦災で焼失していた歌舞伎座が復興開場。戦前では禁止されていた「源氏物語」で戦後最初の歌舞伎ブームが起きる。

七代目常磐津文字太夫、没。

 

1953(昭和28)

十代目小文字太夫が八代目常磐津文字太夫を襲名。

三代目常磐津文字兵衛が日本芸術院に選出される。

襲名挨拶には五代目市川三升、三代目市川左團次、七代目坂東三津五郎、二代目花柳壽輔が口上を述べた。又、襲名新曲「ひとのなさけ(三代目常磐津文字兵衛作曲・六代目藤間勘十郎振付)」には、三代目市川左團次、七代目尾上梅幸、二代目尾上松緑が出演した。

 

1955(昭和30)

二代目市川猿之助により、戦後初の海外公演が行われる(中国)。

三代目常磐津文字兵衛が重要無形文化財の個人指定を受ける。

 

1959(昭和34)

八代目常磐津文字太夫、初代文字太夫生誕の250年にあたることから、宮古路豊後掾の慰霊碑が祭られている浅草寺において、流祖250年回忌の法要(久保田万太郎筆)をいとなみ、産経ホールにて記念演奏会を開催した。

 

1960(昭和35)

アメリカ公演が好評を博す。

 

1961(昭和36)

ソビエト公演が好評を博す。

 

1966(昭和41)

国立劇場が設立される。歌舞伎俳優の養成事業や、歌舞伎の啓蒙活動が始められる。

 

1981(昭和56)

八代目常磐津文字太夫、流儀の重鎮とともに重要無形文化財常磐津節(総合認定)の保持者として認定され、常磐津節保存会を発足し初代会長に就任する。

 


ラスカルさん
なるほど~!こうしてみると大正・昭和も震災や戦争で激動の時代だったんだね!
パンダくん
そう!平成はバブル崩壊やリーマンショックもあり、やはり激動だよね!
レッサーさん
そう!いつの時代も安穏とはしていないんだね!

 





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それでは、次回をお楽しみに!しば~ら~く~!

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