【大歌舞伎】歌舞伎の歴史⑰ 明治期の歌舞伎界と常磐津

日本は伝統を大切にする国です。雅楽・能楽・文楽・歌舞伎。大きくカテゴライズしても、この4大ジャンルに分類できます。この中でも、1番歴史が浅いのですが、世界中で最も認知度が高いのがKABUKIです。庶民の娯楽としておよそ400年前に誕生してから、昭和40年には重要無形文化財に認定され、平成21年にはユネスコから世界無形文化遺産に登録され、現在まで続いています。

ラスカルさん
今日はいよいよ明治だね!
パンダくん
うん!江戸から始まった「歌舞伎」!
レッサーさん
そうだね!明治になると、ようやく「最近」って感じがするよね!

 





 


 

さて、俗に明治維新と呼ばれる大きな時代の変り目が起き、1868年からは新たに「明治」という年号に変わります。初代総理大臣である伊藤博文によってけん引された明治新政府は産業革命によって成功した欧米諸国に追い付くべく、急速な近代化を日本中で推し進めていました。もちろん歌舞伎界も、このような社会状況に大きな影響を受けていました。

 

明治期に重要なキーパーソンといえば十二代目守田勘弥、そして九代目市川團十郎です。この二人に共通するのは、新政府の指針(卑猥残酷な作品を禁止し、高尚で歴史に忠実な作品を上演すること)を受け入れ、積極的に時代の波に乗ったことがあげられます。十二代目守田勘弥は政界とのつながりが深く、時代の節目にいち早く気づくことができたので、天保の改革により猿若町に移転させられていた守田座(1858・安政4年に森田座から守田座に改名)を現在の中央区にある新富町に移しました。それも櫓を撤去し、ガス灯が据えられ、外国人観光客を見込んで椅子席を設けるなど、旧来の歌舞伎小屋と大きく異なるもので、十二代目守田勘弥先見の明があり、経営手腕にたけていたと言えます。

 

九代目市川團十郎は幼少期から史実に忠実な歌舞伎の上演を夢見ていて、政府の指針という時代の波にやはり巧みに乗り、漢学者などブレーンたちの意見や歴史画を参考にし、有職故実にのっとった作品を次々と上演していきます。こういった作品群は「活歴物」と呼ばれ、のちに新歌舞伎十八番に含まれる「高時」などが代表的なものとして挙げられます。

 

また、この明治という新しい時代は「能楽」にとっては本当に深刻な大打撃を与えました。江戸時代までは幕府の式楽として安定かつ強大な地位にいた能楽師たちは、江戸幕府の瓦解を受けて、その多大な庇護を失います。商人や農民に転向する者、歌舞伎界に移る者など多数出現し、大混乱であったと言われています。

当時にしてみれば「能」と「歌舞伎」は全く身分が異なります。能は「幕府の式楽」でしたが、歌舞伎は「庶民の娯楽」です。その身分違いの歌舞伎に秘曲など重要な作品を教えてしまった狂言方などがいましたが、例えば常磐津の松羽目物の1つである「釣女」の詞章「名に大蔵や鷺流の」にある鷺流は、いわゆる裏切り者として断絶させられてしまいました。この時代の能からの移植作品「能取物」の要である「松羽目物(能舞台を模した舞台で演出される作品)」も「活歴物」と共に時代を象徴するような作品となっています。

 

そして九代目市川團十郎と並び称され、当時の歌舞伎界をけん引した五代目尾上菊五郎は写実を重んじ、当時の世相をそのまま映した新しい世話物「散切物」や旧幕時代を題材にしたもの(髪結新三や魚屋宗五郎)を積極的に上演していきました。

 

さらにこの時代は、現在でも歌舞伎界を支える「松竹株式会社」が生まれた時期でもあります。それでは、この時代に成立した常磐津作品と、歌舞伎興行主「松竹」の軌跡を踏まえて考えて行きましょう。

 

 

 

 

1867(明治1)

明治維新を経て、年号が明治になる。

 

1869年(明治3)

六代目小文字太夫、中村座「大都会成扇絵合」にて、三代目常磐津文字太夫五十回忌・初代市川男女蔵三十七回忌・四代目常磐津文字太夫七回忌と称し「助六」など全四段の浄瑠璃を一門総出で上演。

常磐津『助六(大都会成扇絵合)』が初演される。

 

1870年(明治3)

初代市川左團次、守田座『樟紀流花見幕張』(慶安太平記)の丸橋忠弥が大当たりとなる。

常磐津『宮古路(松花宮古路)』が初演される。

常磐津『額抜け(昔噺額面戯)』が初演される。

常磐津『助六家桜(家桜廓掛額)』が初演される。

常磐津『八人聟(縁結姿八景)』が初演される。

 

1871(明治4)

常磐津『角田川班女前物狂(梅花王戯場番組)』が初演される。

常磐津『大津絵大津絵道成寺(名大津絵劇交張)』が初演される。

 

1872(明治5)

六代目常磐津小文字太夫(佐六文中)没。

明治政府が、貴人や外国人といった新しい観客層にふさわしく、卑猥残酷な作品の上演を禁じて、高尚かつ史実に忠実な作品を上演するようにと、歌舞伎へ変革を求めた。この脚本検閲制度は1945(昭和20)年まで続いた。

常磐津『墨塗六歌仙(六歌仙狂画墨塗)』が初演される。

 

1873(明治6)

常磐津『宇和島騒動(君臣船浪宇和島)』が初演される。

 

1874(明治7)

常磐津『こんかい白蔵主(廿三回筐絵双紙』が初演される。

 

1875(明治8)

守田座から新富座に改名。

常磐津『奴道成寺(道成寺真似三面)』が初演される。

 

1877(明治10)

松竹株式会社創業者の一人「白井松次郎」が生まれる。

松竹株式会社創業者の一人「大谷竹次郎」が生まれる。

 

1878(明治11)

新富座が落成。開場式には、歌舞伎関係者は燕尾服に身を包み、政財界からの来賓が多数参列した。

常磐津『三一文字松言葉(三一文字松言葉)』が初演される。

常磐津『西遊記(通俗西遊記)』が初演される。

 

1879(明治12)

二代目松尾太夫、新富座座元の十二代目守田勘弥の世話で家元に養子に入り七代目小文字太夫を襲名。

 

1880(明治13)

常磐津『雨舎り(三幅対名歌雨乞)』が初演される。

 

1881(明治14)

河竹黙阿弥が学者をはじめとする第三者の作品介入に嫌気がさし引退を表明。

常磐津『親睦会(波底親睦会)』が初演される。

 

1882年(明治15)

七代目常磐津小文字太夫、常磐津三味線方岸澤派との和解を成立。

常磐津『時去りの猩々(今様猩々)』が初演される。

 

1883年(明治16)

常磐津『釣女(戎詣恋釣針)』が初演される。

 

1884年(明治17)

七代目常磐津小文字太夫、岸澤派との和解記念曲として「松島」を作曲。

 

1886年(明治19)

七代目常磐津小文字太夫、養母と不和になり家元を離縁される。

常磐津『かっぽれ(初霞空住吉)』が初演される。

常磐津『太田道灌(歌徳恵山吹)』が初演される。

常磐津『狐墳狐畑瓜畑(其俤写沢水・狐墳写沢水)』が初演される。

常磐津『墨田川雪の八景』が初演される。

 

1887年(明治20)

前年からの演劇改良運動の結果、井上馨邸で初めての天覧歌舞伎が実現。九代目市川團十郎・五代目尾上菊五郎・初代市川左團次(通称:團菊左)などの上演で「勧進帳」「土蜘」などが上演される。九代目市川團十郎は井上馨のほかにも伊藤博文や松方正義などの元老とも交流を持ち、歌舞伎俳優の社会的地位の向上につとめた。

また、九代目市川團十郎は、父・七代目の撰した「歌舞伎十八番」18種を補足するかたちで、活歴物を含む自らの得意芸を多く盛り込んだ「新歌舞伎十八番」32〜40種も撰している。

常磐津『紅葉狩(新歌舞伎十八番の一つ)』が初演される。

 

1888(明治21)

浪花太夫が八代目常磐津小文字太夫を襲名。

 

1889年(明治22)

福地桜痴を中心として、新しい劇場をつくろうとする動きが始まり「歌舞伎座」が開場。

十二代目守田勘弥、中村座・市村座・千歳座と連携していわゆる「四座同盟」を結成して、歌舞伎座に役者がでられないように仕向けて立ち往生させるなどの手腕を発揮する。

八代目常磐津小文字太夫が第一期歌舞伎座において専属で起用されることが決まる。

初代常磐津林中が出勤し始める。

 

1890年(明治23)

初代市川左團次、新富座の座頭(劇場専属の興行責任者)になる。

常磐津『戻橋(戻橋恋の角文字)・新古演劇十種の一つ』が初演される。

 

1891(明治24)

常磐津『女鳴神(増補女鳴神)』が初演される。

 

1892(明治25)

常磐津『三保の松羽衣(三保松冨士晨朝)』が初演される。

常磐津『釣狐太鼓もちつり狐恋の罠(釣狐廓掛罠)』が初演される。

 

1893(明治26)

河竹黙阿弥、没。

初代市川左團次、明治座を新築し、座元(劇場所有者兼興行総責任者)として近代的な劇場経営を行う。

常磐津『奴凧(奴凧廓春風)』が初演される。

常磐津『七つ面(新七つ面)』が初演される。

 

1894(明治27)

常磐津『玉藻前(増補双六磐露の玉藻)』が初演される。

常磐津『二人袴』が初演される。

 

1895(明治28)

大谷松次郎実川正若一座を率いての巡業をはじめて行い、劇場仲売り白井亀吉に認められ、養子となる(→白井松次郎)。

大谷竹次郎が京都阪井座を買収し、その興行主となる(松竹創業起源)。

常磐津『扇獅子』が初演される。

 

1896(明治29)

常磐津『久米の仙人うしろ面(後面萩玉川)』が初演される。

常磐津『赤垣徳利場(義士銘々伝)』が初演される。

 

1897(明治30)

十二代目守田勘弥、没。

常磐津『大森彦七新歌舞伎十八番の一つ』が初演される。

 

1898(明治31)

常磐津『羽衣新古演劇十種の一つ』が初演される。

常磐津『三人片輪澤瀉十種の一つ』が初演される。

 

1899(明治32)

常磐津『羽衣松の羽衣新古演劇十種の一つ』が初演される。

常磐津『薩摩踊(名慕薩摩踊)』が初演される。

常磐津『七福神(豊文字名誉三囲)』が初演される。

 

1900(明治33)

白井松次郎、京都新京極の大黒座を買い取って直営する。

常磐津『百物語(闇梅百物語)』が初演される。

 

1902(明治35)

京都で白井松次郎・大谷竹次郎兄弟による「松竹合名会社」が誕生。京都新京極に明治座(のちの京都松竹座)を開場、興行界の刷新と演劇改良運動に熱心にかかわるようになる。

八代目常磐津小文字太夫が、六代目常磐津文字太夫を襲名。

 

1903(明治36)

五代目尾上菊五郎、没。

九代目市川團十郎、没。

常磐津『竹生島』が初演される。

 

1904(明治37)

初代市川左團次、没。

六代目常磐津文字太夫が、初代常磐津林中と和解

常磐津『武悪澤瀉十種の一つ』が初演される。

 

1906(明治39)

白井松次郎、初代中村岩次郎とかたい提携のもと、道頓堀中座での興行を成功させ、近畿における足がかりを築いた。同年のうちに京都南座を買収する。以後、大阪朝日座、同文楽座(1909年)、東京新富座(1910年)、大阪堂嶋座(1911年)、東京歌舞伎座1913年)、大阪角座(1917年)、大阪中座(1918年)を次々と手中に収める。

初代常磐津林中、没。

常磐津『文福茶釜(昔噺宝の釜)』が初演される。

 

1907(明治40)

常磐津『常磐緑』が初演される。

常磐津『墨塗(墨塗女)』が初演される。

常磐津『俄仙人』が初演される。

 

1908(明治41)

常磐津『東都獅子』が初演される。

 

1909(明治42)

白井松次郎、義侠心から人気の低迷していた人形浄瑠璃(文楽)の経営権を譲りうけ、保存と振興に尽力する。

常磐津『千歳の影』が初演される。

 

1910(明治43)

常磐津『花子(身替座禅)・新古演劇十種の一つ』が初演される。

 

1911(明治44)

常磐津『楠公(楠公桜井の訣別)』が初演される。

 


ラスカルさん
う~ん!明治も変動の時代だね!
パンダくん
そう!その時代その時代に大きなイベントがあって。。。!
レッサーさん
そう!でも、それを1つ1つ乗り越えてきて「いま」があるんだね!

 





レッサーさんの歌舞伎入門「大歌舞伎」のコーナー! 日本の伝統芸能で一番有名な歌舞伎! 日本人ならキチンと知っておきたいよね!

それでは、次回をお楽しみに!しば~ら~く~!

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