【大歌舞伎】歌舞伎の歴史⑭ 河竹黙阿弥

日本は伝統を大切にする国です。雅楽・能楽・文楽・歌舞伎。大きくカテゴライズしても、この4大ジャンルに分類できます。この中でも、1番歴史が浅いのですが、世界中で最も認知度が高いのがKABUKIです。庶民の娯楽としておよそ400年前に誕生してから、昭和40年には重要無形文化財に認定され、平成21年にはユネスコから世界無形文化遺産に登録され、現在まで続いています。

ラスカルさん
今日も歌舞伎のことをどんどん学んでいくわよ~!
パンダくん
うん!今日は何についてかな!?
レッサーさん
うん!ワクワクするよね!

 





 


 

また、嘉永・安政などの幕末期には、化政期の大南北(四代目鶴屋南北)のあとに続き、河竹黙阿弥(二代目河竹新七)という有名な狂言作者が登場します。その作品総数360編、江戸歌舞伎の大問屋と称されました。この河竹黙阿弥の成功に導いたのが名優と名高い「四代目市川小團次」による引き立てです(それまで小團次は五代目鶴屋南北の弟子三代目瀬川如皐を重宝していました)。

 

河竹黙阿弥は小團次のために「小袖曽我薊色縫(こそでそがあざみのいろぬい・十六夜清心)」「三人吉三廓初買(さんにんきちさくるわのはつかい・三人吉三)」「青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ・白波五人男)」など現在でも頻繁に上演される作品を書き上げました。この白波五人男を代表とする「白浪物」というジャンルを確立し、大南北(四代目鶴屋南北)の頃までは、文辞も節調も簡単だったセリフを、キッパリと七五調の型に決めたのが特色で「しがねえ恋の情けが仇」「知らざぁ言って、聞かせやしょう」「こいつぁ春からぁ縁起がいいわぇ」など、精緻な口触りの良さが耳に心地いいです。

また、劇中では、竹本・清元・黒御簾音楽を効果的に使いました。当時の小説・講談・落語を積極的に取り入れたのも特色です。

 

1747年(延享4)

文字太夫・38歳。宮古路姓を改め関東文字太夫と名乗るが北町奉行から禁止。同年11月「二代目市川團十郎・初代澤村宗十郎・初代瀬川菊之丞」が揃った「三千両の顔見世(中村座)」で常磐津文字太夫の狼煙をあげ、常磐津を創流

元祖出雲こと初代竹田出雲が死去。あとは親方出雲とのちに呼ばれる二代目竹田出雲に引き継がれる。

三代名作の一つ「義経千本桜(よしつねせんぼんざくら)、二代目竹田出雲・三好松洛・並木千柳の合作」が大阪竹本座で初演。

 

1748年(延享5)

文字太夫・39歳。弟弟子である初代常磐津小文字太夫(前名・宮古路小文字太夫)が独立し、富本節を興す。のちに清元節へとつながる。

三代名作の一つ「義経千本桜」が歌舞伎にうつされる(伊勢の芝居)。

三代名作の一つ「仮名手本忠臣蔵(かなてほんちゅうしんぐら)」が大阪竹本座で初演。すぐさま歌舞伎にうつされる(大阪嵐三五郎座)。

 

1751(宝暦1)

並木宗輔が死去。その絶筆作「一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)」が大阪豊竹座で初演。

 

1753年(宝暦3)

文字太夫・44歳。市村座での「鐘入妹背俤」の出語りで大好評を博す。

一谷嫩軍記」が歌舞伎で初演(江戸守田座・中村座)。

並木正三が「けいせい天羽衣」で舞台の三間四方をせり上げるなど、舞台機構にさまざまな工夫を凝らし始める。

長唄「京鹿子娘道成寺(きょうがのこむすめどうじょうじ)」初演。初代杵屋弥三郎作曲、藤本斗文作詞。

 

1754(宝暦4)

二代目海老蔵(二代目團十郎)、門弟(実子とも?)の二代目松本幸四郎を養子とし、四代目團十郎を継がせる。四代目市川團十郎の実子(幸蔵)が三代目松本幸四郎を襲名。

 

1755(宝暦5)

のちの四代目鶴屋南北が生まれる。

 

1756(宝暦6)

二代目竹田出雲が死去。

 

1758(宝暦8)

並木正三「三拾石艠始(さんじっこくよふねのはじまり)」で舞台を何度も廻す転換を見せる。以前にも存在した「廻して転換する方法」は、この時初めて舞台の下を掘り下げ、奈落の下に張られた網を引いて転換する、という大掛かりな方法がとられた。《廻り舞台》のはじまりとなる。

 

1764(明和1)

豊竹若太夫(越前小掾)が死去。人形浄瑠璃界に暗雲が立ち込め始める。

五代目松本幸四郎が生まれる。

 

1765(明和2)

豊竹座の経営権が人手に移る。

 

1769(明和6)

のちの二代目文字太夫が初代文字太夫の脇語りに抜擢される。

 

1770(明和7)

四代目市川團十郎、実子の三代目松本幸四郎に五代目團十郎を譲り、自らは二代目幸四郎に戻った。

 

1771(明和8)

竹本座が完全に閉じ、歌舞伎芝居の小屋となる。

 

1773(安永2)

文字太夫・64歳。市村座「錦敷色義仲」を最後に引退。隠居名を松根亭松寿斎とする。

 

1775(安永4)

舞踊の名手「三代目坂東三津五郎」が生まれる。

 

1776(安永5)

源蔵(のちの四代目鶴屋南北)、初代桜田治助の門に入り、金井三笑、並木五瓶、中村重助、増山金八らに師事し、下積み時代が30年ほど続く。

五代目岩井半四郎が生まれる。

 

1778(安永7)

四代目市川團十郎没。

舞踊の名手「三代目中村歌右衛門」が生まれる。

 

1781(天明1)

初代常磐津文字太夫没。享年72歳。

 

1784(天明4)

初代中村仲蔵が「積恋雪関扉(つもるこいゆきのせきのと)・常磐津」を初演。二代目文字太夫節附、初代鳥羽屋里長作曲。

三代目尾上菊五郎が生まれる。

 

1787(天明7)

初代常磐津文字太夫の七回忌に、文字太夫遺族から「一代限りの条件」で、初代兼太夫が二代目文字太夫を継承する。

 

1788(天明8)

常磐津「戻駕色相肩(もどりかごいろにあいかた)」が初演。二代目文字太夫節付、初代鳥羽屋里長作曲、初代桜田治助作詞。

松平定信が寛政の改革を行い、歌舞伎界も大きな打撃を受ける。

 

1791(寛政3)

七代目市川團十郎が生まれる。

 

1792(寛政4)

のちの三代目文字太夫(林之助)が生まれる。

 

1794(寛政6)

初代並木五瓶が江戸へ下り、上方風の作劇方法を導入。江戸歌舞伎に新味を加える。

 

1799(寛政11)

六代目市川團十郎急死。五代目團十郎が市川白猿の名で舞台に戻る。

二代目常磐津文字太夫没。林之助が二代目小文字太夫を襲名。

二代目兼太夫(二代目文字太夫の弟)が別派吾妻派を興す。

 

1800(寛政12)

市川家元祖百年忌追善興行で、五代目市川團十郎孫のゑび蔵が七代目市川團十郎を襲名する。

 

1804(文化1)

源蔵(のちの四代目鶴屋南北)、初代尾上松助のために書き下ろした「天竺徳兵衛韓噺(てんじくとくべえうきよばなし)」が江戸河原崎座で大当たりを博し、脚光を浴び始める。

源蔵、四代目鶴屋南北を襲名。初代尾上松助とともに怪談物を、七代目市川團十郎・三代目尾上菊五郎・五代目岩井半四郎、五代目松本幸四郎らとともに生世話物をそれぞれ確立した。

淡路の浄瑠璃語り嘉太夫(雅号・文楽軒)が大阪稲荷神社内に小さな小屋を建てる。

 

1806(文化3)

五代目市川團十郎没。祖父である五代目を亡くし、七代目市川團十郎が後ろ盾をなくし、劇壇の孤児となり化政期の名優たちに揉もまれていったが、着実と実力をつけていった。

 

1810(文化7)

初代文楽軒没。

 

1811(文化8)

二代目文楽軒が浄瑠璃小屋を正式に開場。経営を始め、基礎を固める。以降、三代目の文楽翁に引き継がれる。人形浄瑠璃は「文楽軒の芝居」と言われ、明治4年以降、芝居小屋は文楽座と呼ばれるようになったので、現在では人形浄瑠璃=文楽と呼ばれるようになる。

三代目坂東三津五郎が七変化舞踊「七枚続花の姿絵(しちまいつづきはなのすがたえ)を上演したのに対し、三代目中村歌右衛門が「遅桜手爾葉七文字(おそざくらてにはのななもじ)」を上演し、江戸中の評判となる。

歌舞伎十八番の1つ「助六(助六所縁江戸櫻)」が初演される。

 

1812(文化9)

名優四代目市川小團次が生まれる。

 

1813(文化10)

江戸森田座で「お染久松色読販(おそめひさまつうきなのよみうり)・お染の七役」が初演。四代目鶴屋南北作。

 

1815(文化12)

江戸河原崎座で、変化舞踊「伊達の十役」が初演される。

 

1816(文化13)

河竹黙阿弥が生まれる。

 

1821(文政4)

のちの四代目市川小團次、七代目市川團十郎の門弟となる。

 

1823(文政6)

八代目市川團十郎が生まれる。

 

1825(文政8)

江戸中村座で、「仮名手本忠臣蔵」の世界を用いた外伝、南北の代表的な生世話狂言である「東海道四谷怪談(とうかいどうよつやかいだん・四代目鶴屋南北作・七代目市川團十郎出演)」が初演。

江戸中村座で、「東海道四谷怪談」の後日譚、並木五瓶の「五大力恋緘(ごだいりきこいのふうじめ)」の書き換え、「仮名手本忠臣蔵」の外伝としての性格を持つ「盟三五大切(かみかけてさんごたいせつ)」が初演。

 

1829(文政12)

四代目鶴屋南北(大南北)没。

 

1832(天保3)

舞踊の名手「三代目坂東三津五郎」没。

七代目市川團十郎、親子二代襲名では息子海老蔵に八代目市川團十郎を譲り、自身は旧名の海老蔵を名のった。その際、代々の團十郎が得意とした18作品を選び「歌舞伎十八番」とした。

 

1835(天保6)

のちの河竹黙阿弥、五代目鶴屋南北の門下となる。

 

1838(天保9)

踊りの名手「三代目中村歌右衛門」没。

五代目松本幸四郎、没。

 

1840(天保11)

初代市川團十郎の生誕190年を祝い、初代市川團十郎が上演した「勧進帳」を復活させる。能「安宅」を参照し、現在の「勧進帳」をつくり上げた。

 

1841(天保12)

天保の改革により、歌舞伎が大弾圧をうける。

七代目市川團十郎、江戸を追放される。

二代目中村富十郎、摂津、河内、和泉を追放される。

中村座・市村座・河原崎座は、悪所と言われ遊郭と同等とされる浅草猿若町へと強制移転させられる。天保の改革で下火となったが、八代目市川團十郎人気のおかげで、芝居町には徐々に客が溢れるようになる。

 

1843(天保14)

のちの河竹黙阿弥、二代目河竹新七を襲名し、立作者となる。

 

1844(弘化1)

市川米十郎が四代目市川小團次を襲名。三代目中村歌右衛門の死後、劇場関係者にとっては次の大看板を期待する有望な若手だった。

 

1847(弘化4)

五代目岩井半四郎、没。

 

1849(嘉永2)

三代目尾上菊五郎、没。

 

1853(嘉永7)

二代目河竹新七、立作者となっても永いあいだ鳴かず飛ばずだったが、四代目市川小團次のために書いた「都鳥廓白波(忍の惣太)」が大当たりをとり出世作となる。

三代目瀬川如皐の「与話情浮名横櫛(切られ与三)」が初演される。四代目市川小團次八代目市川團十郎と組んで競演。

二代目河竹新七、三代目瀬川如皐が書いた「与話情浮名横櫛(切られ与三)」を書き換え、三代目澤村田之助のために書いた「処女翫浮名横櫛(切られお富)」が初演される。

 

1854(嘉永7)

八代目市川團十郎、没。

 

1858(安政5)

二代目河竹新七、四代目市川小團次のために書いた「小袖曾我薊色縫(十六夜清心)」が初演される。

 

1859(安政6)

七代目市川團十郎、没。

 

1860(安政7)

二代目河竹新七、四代目市川小團次のために書いた「三人吉三廓初買(三人吉三)」が初演される。

 

1862(文久2)

二代目河竹新七、十三代目市村羽左衛門(五代目尾上菊五郎)のために書いた「青砥稿花紅彩画(白浪五人男)」が初演される。

 

1866(慶応2)

名優四代目市川小團次、没。

 

1893(明治26)

河竹黙阿弥、没。

 

河竹黙阿弥は明治に突入してからも意欲的に執筆し、江戸歌舞伎の大問屋と称されたほど数多くの作品を残しました。七代目市川團十郎が勧進帳で弁慶をつとめた際に後見をしていて、その科白をすべて暗記していたの能力をかわれ、のちに九代目市川團十郎五代目尾上菊五郎を指導して、彼らに少なからず影響を与えたとされる名優四代目市川小團次や、美貌で人気を博したが早世した八代目市川團十郎とも組んで、現在でも人気のある作品を作ってきました。

 

江戸荒事を創始した市川宗家である市川團十郎。歌舞伎の歴史を語る上では必ず主軸となりますが、その市川宗家の裃(かみしも)と似た色の肩衣(かたぎぬ・裃の後ろ部分がないもの)を身につけている三味線音楽の演奏方があります。常磐津です。三代目常磐津文字太夫七代目市川團十郎の舎弟(弟のような存在)であり、四代目常磐津文字太夫が元服する際には七代目市川團十郎が烏帽子親になっています。以前の記事のように常磐津もその性質上、歌舞伎の歴史を語る上ではなくてならない存在なのです。

 

それでは、そんな常磐津の創始者(宗家・家元)である初代常磐津文字太夫から、嵯峨御所から掾号を受領して初代常磐津豊後大掾となった四代目常磐津文字太夫までの時代に何があったのかを、成立した常磐津作品とともに考えて行きましょう。まずは、出来事から考察して行きます。

 


ラスカルさん
なるほどね!歌舞伎作品を書く人を「狂言作者」って言うんだね!
パンダくん
うん!大南北のあとは河竹黙阿弥の時代と言えるね!
レッサーさん
うん!そのほか「瀬川如皐」なんかも有名だよね!

 





レッサーさんの歌舞伎入門「大歌舞伎」のコーナー! 日本の伝統芸能で一番有名な歌舞伎! 日本人ならキチンと知っておきたいよね!

それでは、次回をお楽しみに!しば~ら~く~!

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