【大歌舞伎】歌舞伎の歴史⑫ 化政期・四代目鶴屋南北

日本は伝統を大切にする国です。雅楽・能楽・文楽・歌舞伎。大きくカテゴライズしても、この4大ジャンルに分類できます。この中でも、1番歴史が浅いのですが、世界中で最も認知度が高いのがKABUKIです。庶民の娯楽としておよそ400年前に誕生してから、昭和40年には重要無形文化財に認定され、平成21年にはユネスコから世界無形文化遺産に登録され、現在まで続いています。

ラスカルさん
今日も歌舞伎のことをどんどん話していくわよ~!
パンダくん
うん!今日はどんなことが学べるんだろう!?
レッサーさん
そう!歌舞伎は奥深いから楽しいよね!

 





 


 

さて、文化文政年間は「化政期」といい、歌舞伎には大きな変化がもたらされました。1747(延享4)に宮古路文字太夫が常磐津文字太夫と名のって常磐津節を創流し、翌年には初代常磐津小文字太夫が富本豊志(とよし)太夫と改名して富本節を創流。その流れから1814(文化11)には二代目富本斎宮(いつき)太夫が、初代清元延寿太夫を名乗り、清元節が誕生しました。

歌舞伎では半太夫節、河東節、大薩摩節、一中節などが用いられた歴史がありますが、現在では主に、常磐津節・清元節・竹本(義太夫節)、そして歌い物*である長唄の4種類が踊りで演奏されています。

*歌い物=日本の伝統的な声楽のなかで、地歌、長唄、端唄など、歌うことを目的とした音楽の総称。その音楽的要素が重視される楽曲。

*語り物=日本の伝統的な声楽のなかで、平曲、謡曲、浄瑠璃など、語ることを目的とした音楽の総称。何らかの物語性をもち、語られる内容表現に重点が置かれる。

この化政期に優れた名作の数々を作り出したのが「四代目鶴屋南北(つるやなんぼく・大南北)」です。大南北は長い下積み時代を経て、1804(文化1)の「天竺徳兵衛韓噺(てんじくとくべえいこくばなし)」で脚光を浴びてからは、多くの名作を世に送ってきました。

大南北作品の特徴は、化政期の退廃的な世相を反映した、猥雑・残虐(エログロ)というものが強調され、笑いの場面(ナンセンス)も多く、「戸板返し」「仏壇返し」のような仕掛けや、「早変わり」「宙乗り」といったケレン*を多用したこと、従来の世話物をよりリアルにした「生世話(きぜわ)の確立」などが挙げられます。この頃の役者は、ケレンを得意とした「初代尾上松緑」「五代目松本幸四郎」「七代目市川團十郎」「五代目岩井半四郎」「四代目中村歌右衛門」など名優がその芸を競い合っていました。また、「三代目中村歌右衛門」「三代目坂東三津五郎」で競い合い、変化舞踊が、三、五、七、十二変化とエスカレートしたのも、この時代の特徴と言えます。変化舞踊ブームが過ぎると、その中の一作品だけが残り、現代でも繰り返し上演されています。

*ケレン=外連とも書き、宙乗りや早変わりなどの見世物的でアクロバティックな仕掛けで妖しさを演出したり、目先の変化を狙う演出のこと。「宙乗り」「早替わり」「引抜き」「ぶっかえり」「戸板返し・仏壇返し・提灯抜け(四谷怪談)」「階段の打返し・高欄抜け・欄間抜け(義経千本桜・四の切)」などがある。

天保を迎えることなく亡くなった大南北(四代目鶴屋南北)。生世話の確立やケレンの多用、それに変化舞踊など、ひとつの時代を作り上げました。

 

 

1635(寛永12年)

宇治加賀掾生まれる。

 

1647(正保4)

初代坂田藤十郎生まれる。

 

1651(慶安4)

竹本義太夫生まれる。

 

1653(承応2)

近松門左衛門生まれる。

 

1660(万治3年)

宮古路豊後掾(都国太夫半中)生まれる。

初代市川團十郎が生まれる。

現在の銀座5丁目に、森田太郎兵衛(初代森田勘彌)が「森田座」を立ち上げる。これにより「江戸四座(中村座・市村座・山村座・森田座)+河原崎座」が出揃う。

 

1662(寛文1)

初代中村七三郎(江戸・和事)が生まれる。生島新五郎(和事師)が七三郎の芸を受け継ぎ、のちに二代目團十郎に影響を与えた。これにより、のちの二代目團十郎は、荒事芸(初代團十郎)に和事味(生島新五郎)を加味した、独自の芸風を育て、のちに「助六」「毛抜」などが誕生した。

 

1663(寛文3)

後継者不在のため、森田座が河原崎座を吸収合併。

 

1669(寛文9)

都越後掾(都万太夫)、芝居の興行権を免許され名代となる。京都四条に都万太夫座(現在に南座)を立ち上げる。

 

1673(延宝元)

初代芳沢あやめが生まれる。

 

1675(延宝3)

宇治加賀掾が京都四条で人形芝居の一座を立ち上げる。

 

1676(延宝4)

初代坂田藤十郎。京都・都万太夫座で初舞台。

 

1678(延宝6)

初代坂田藤十郎、「夕霧名残の正月」で伊左衛門を演じ人気を博す。生涯に18回演じるほどの当たり役となり「夕霧に芸たちのぼる坂田かな」と謳われる。のちの「廓文章」に大きな影響を与えた。

 

1681(天和1)

豊竹若太夫生まれる。

 

1683(天和3)

近松門左衛門が加賀掾のために「世継曽我」を書く。上演。

 

1684(貞享元)

竹本義太夫が大坂道頓堀に「竹本座」を開場して座本となる。この旗揚げとして「世継曽我」を上演。

歌舞伎十八番の1つ「鳴神」が初演される。

 

1685(貞享2)

竹本義太夫が「出世景清」を上演。浄瑠璃の転換期となる。道頓堀に宇治加賀掾一座が乗り込むが、火事を起こし敗退する。

初代市川團十郎が、従来の初期歌舞伎から存在する「荒武者事」と「金平浄瑠璃(坂田金時の息子・金平の武勇譚)」とを加味して「歌舞伎における荒事芸」を完成させる(金平六条通い)。

初代坂田藤十郎が、遊郭の通う美男子の若旦那が放蕩三昧の末、勘当されて、落ちぶれた姿で馴染の遊女のもとへ通うという「和事」を確立(やや同時期)。「廓文章(1808)」の原典に当たる「夕霧名残の正月」の藤屋伊左衛門を生涯で18回も演じる。

初代澤村宗十郎(初代助高屋高助)生まれる。

 

1686(貞享3)

竹本座上演の「佐々木大鑑」で、初めて「近松門左衛門」の名を出す(それまでは狂言作者の名を面に出す慣例がなかった)。

 

1688(元禄1)

二代目市川團十郎が生まれる。初代團十郎が成田山新勝寺(成田不動)に子宝の願をかけたところ見事生れた子だったので「不動の申し子」といわれた。

 

1691(元禄4)

初代竹田出雲生まれる。

 

1693(元禄6)

これより10年ほど、近松は歌舞伎作者となり、都万太夫座(京都)に出勤。坂田藤十郎が得意とした「やつし」「長せりふ」を巧みに取り入れた芝居の台本を書くようになる(けいせい仏の原・けいせい壬生大念仏・けいせい浅間嶽など)。その後は浄瑠璃に戻ったが、歌舞伎作者として学んだ「歌舞伎の趣向」が「人形浄瑠璃」の作に生かされることになった。

初代市川團十郎、上洛して京都の舞台に出演するが評判は悪く、1年あまりで江戸に帰る。

初代瀬川菊之丞生まれる。

 

1695(元禄8)

坂田藤十郎、京都・都万太夫座の座元になる。

並木宗輔生まれる。以降、竹本・豊竹両座で活躍。

 

1697(元禄10)

初代市川團十郎、のちに歌舞伎十八番に加えられる「(しばらく)」を初演。

二代目市川團十郎、「兵根元曾我(中村座)」で初舞台。

歌舞伎十八番の1つ「不動」が初演される。

 

1698(元禄11)

初代芳沢あやめ、「傾城浅間嶽」の傾城三浦役が人気を博す。

竹本義太夫、竹本筑後掾の掾号を得る。

竹本義太夫、曽根崎心中で好評を得る。

 

1699(元禄12)

歌舞伎十八番の1つ「」が初演される。

 

1702(元禄15)

歌舞伎十八番の1つ「勧進帳」が初演される。

 

1703(元禄16)

義太夫一座の竹本采女が豊竹若太夫(22)と名のり、道頓堀東に豊竹座を興す。

 

1704(元禄17)

初代市川團十郎、市村座で、役者の生島半六(自身の息子が虐待を受けたことで團十郎を恨んでいた)に舞台上で刺殺される。

二代目市川團十郎、父の初代團十郎の横死によって、山村座で二代目を襲名する。

 

1705(宝永2)

竹本義太夫(54)、経営・初代竹田出雲(14)、座付作者・近松門左衛門(52)とタッグを組み、従来の芸術至上主義から路線を変更し、華やかな舞台演出となる。*ちなみに豊竹若太夫はこの時24歳。

 

1708(宝永5)訴訟により、浅草弾左衛門支配(江戸)からの独立を果たす。

初代坂田藤十郎「夕霧」を最後に舞台活動から去る。

 

1709(宝永6)

初代常磐津文字太夫生まれる。本名:駿河屋文右衛門。京都の仏具商。

初代坂田藤十郎没。

 

1711(正徳1)

のちの三代目市川團十郎生まれる。

 

1713(正徳3)

二代目市川團十郎。「花館愛護桜(山村座)」で助六を初めて勤めたころから徐々に人気を得るようになる。

歌舞伎十八番の1つ「助六(助六所縁江戸櫻)」の原型となる「花館愛護櫻」が初演される。

 

1714(正徳4)

竹本義太夫死去。竹本政太夫(のちの筑前小掾)が後継に選ばれる。

江島生島事件で山村座は官許取り消して廃座。以降「江戸三座(中村座・市村座・森田座)」になる。

初代芳沢あやめ、江戸に下っていたが帰京。

のちの四代目市川團十郎が初代松本幸四郎の養子(松本七蔵・享保5)となり、女方をつとめる。

 

1715(正徳5)

国性爺合戦(こくせんやかっせん)が人形浄瑠璃で初演(近松門左衛門作)。

 

1716(正徳6)

初代芳沢あやめ、役者評判記「三ヶ津惣芸頭」で高い評価を受ける。

国性爺合戦が歌舞伎に取り上げられる(京都・大阪)。

第8代将軍徳川吉宗の「享保の改革」が始まり、江戸の歌舞伎界は大打撃を受けるが、興業システムが完成される(正月には必ず曽我狂言を上演するなど)。

 

1717(享保7)

国性爺合戦が江戸三座で競演されるようになる。以降、人形浄瑠璃の新作が、すぐに歌舞伎化されるようになる。

 

1718(享保8)

歌舞伎十八番の1つ「外郎売」が初演される。

 

1720(享保5)

容姿顔貌は十人並みで声はしゃがれて低かったことから廃業していた初代瀬川菊之丞が3年ぶりに復帰。かつての地味さはなくなり、艶やかな役者ぶりで、その芸が認められ次第に評判となる。

 

1721(享保6)

二代目市川團十郎が「千両役者」と呼ばれ大スターとなる。

 

1723(享保8)に

都国太夫半中、師が没したので都路国太夫と改名し独立。

竹田出雲・松田和吉の合作した「大棟宮曦鎧(おおとうのみやあさひのよろい)」を近松門左衛門が添削し、複数人が戯曲を書く「合作制度」の完成度が高まった。

人形浄瑠璃では、一人遣いが三人遣いになり、より人間に近い演技が可能となった。

 

1725(享保9)

近松門左衛門が死去。初代竹田出雲が狂言作品を書くようになる。

 

1727(享保12)

歌舞伎十八番の1つ「押戻」が上演される。

 

1728(享保13)

初代芳沢あやめ引退。

初代瀬賀菊之丞、京・市山座「けいせい満蔵鑑」の「無間の鐘」で名声を博す。

 

1729(享保14)

初代芳沢あやめ没。

 

1730(享保15)

都路国太夫、宮古路豊後と改名し豊後節(のちに多くの豊後系浄瑠璃を生み出す本家本元)を創始。

初代瀬川菊之丞、江戸へ下り「三都随一の女方」と讃えられる。

 

1731(享保16)

豊後節、豊後掾のスタイルを真似た「文金風」が大ブームとなるが、江戸で豊後節が禁止(1度目)されてしまう。宮古路豊後71歳・宮古路右膳(のちの文字太夫)22歳。

のちの二代目文字太夫が生まれる。

 

1732(享保17)

宮古路豊後、高弟である宮古路右膳を伴い名古屋に進出する。

歌舞伎十八番の1つ「景清」が初演される。

 

1733年(享保18)

宮古路右膳(駿河屋文右衛門)が、宮古路文字太夫と改名。24歳

夏。名古屋の「闇の森(くらがりのもり)」にて、日置の畳屋伊八と飴屋町花村屋抱え遊女おさんが心中を成し、未遂に終った事件が起きる。

 

1734(享保19)

宮古路豊後が「おさん伊八の心中事件」を題材に「睦月連理椿(むつきれんりのたまつばき)」を書き下ろし、名古屋広小路・黄金薬師で初演し、大評判*となる。掾号を受領して宮古路豊後掾橘盛村となり、大劇場である江戸中村座に進出する。

*宮古路文字太夫はワキ。25歳。

初代瀬川菊之丞が「風流相生獅子」を上演。「石橋(しゃっきょう)もの」の源流となる。

 

1735(享保20)

借金返済で破綻し休座していた森田座の控え櫓として、二代目河原崎権之助が森田座代興行権を引き当て、河原崎座を復興。

二代目市川團十郎、門弟の市川升五郎に三代目團十郎を譲り、自らは二代目市川海老蔵(初代團十郎の幼名が初代海老蔵)を襲名する。

松本七蔵が二代目松本幸四郎を襲名。

 

【享保年間】

上方から下った坂田兵四郎が新風を吹き込み、冨士田吉次が音楽的な幅を広げ、江戸長唄が確立した。同時に黒御簾(くろみす)音楽が整備され始める。従来は女方のみが舞踊を踊っていたが、この頃から立役の舞踊も増えていった。

 

1736年(元文元年)

宮古路文字太夫、3月の市村座「小夜中山浅間巌」で立語りとなったが、町奉行より風紀を乱すとの理由で、豊後節は大弾圧を受け全面禁止(2度目)。豊後掾76歳・文字太夫27歳。

 

1737(元文2)

歌舞伎十八番の1つ「関羽」が上演される。

 

1738(元文3)

江戸での舞台を弟子にまかせ、自身は再び上方に戻り、宮古路豊後掾自身は上方(京阪)の劇場で活躍する。

 

1739(元文4)

江戸町奉行水野勝彦によって、浄瑠璃太夫の名を出すこと、稽古場の看板をあげること、文金風を真似ること等が禁止され、豊後節が非常に厳しい弾圧(3度目)を受ける。豊後掾79歳・文字太夫30歳。

人形浄瑠璃では「ひらかな盛衰記」が初演。傾城「梅が枝」が、手水鉢を使っての無間の鐘を演じる場面(四段目)は、初代瀬川菊之丞の「無間の鐘」の演技を写したものとされる。

 

1740(元文5)

宮古路豊後掾、没。文字太夫31歳。

歌舞伎十八番の1つ「七つ面」が初演される。

 

1741(寛保1)

歌舞伎十八番の1つ「毛抜」が初演される。

三代目市川團十郎没。「毛抜」の初演時。享年22歳。

のちの五代目市川團十郎が生まれる。

 

1744(延享元)

初代瀬川菊之丞、「百千鳥娘道成寺」に出演。「道成寺もの」の源流となる。のちに初代中村富十郎が「娘道成寺」を踊るにあたり参考にした。

 

 

1745(延享2)

宮古路加賀太夫が脱退。のちに新内節へとつながる(富士松薩摩掾→鶴賀新内)。

宮古路園八が脱退。のちに宮園節へとつながる(二代目園八→宮薗鸞鳳軒)。

 

1746年(延享3年)

宮古路文字太夫37歳。豊後掾七回忌に際して浅草寺境内に宮古路豊後掾の慰霊碑を建立。

三代名作の一つ「菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)、竹田出雲・並木千柳・三好松洛・竹田小出雲の合作」が大阪竹本座で初演(人形浄瑠璃)。すぐさま京都中村喜世三郎座で初演(歌舞伎)。

 

1747年(延享4)

文字太夫・38歳。宮古路姓を改め関東文字太夫と名乗るが北町奉行から禁止。同年11月「二代目市川團十郎・初代澤村宗十郎・初代瀬川菊之丞」が揃った「三千両の顔見世(中村座)」で常磐津文字太夫の狼煙をあげ、常磐津を創流。

元祖出雲こと初代竹田出雲が死去。あとは親方出雲とのちに呼ばれる二代目竹田出雲に引き継がれる。

三代名作の一つ「義経千本桜(よしつねせんぼんざくら)、二代目竹田出雲・三好松洛・並木千柳の合作」が大阪竹本座で初演。

 

1748年(延享5)

文字太夫・39歳。弟弟子である初代常磐津小文字太夫(前名・宮古路小文字太夫)が独立し、富本節を興す。のちに清元節へとつながる。

三代名作の一つ「義経千本桜」が歌舞伎にうつされる(伊勢の芝居)。

三代名作の一つ「仮名手本忠臣蔵(かなてほんちゅうしんぐら)」が大阪竹本座で初演。すぐさま歌舞伎にうつされる(大阪嵐三五郎座)。

 

1751(宝暦1)

並木宗輔が死去。その絶筆作「一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)」が大阪豊竹座で初演。

 

1753年(宝暦3)

文字太夫・44歳。市村座での「鐘入妹背俤」の出語りで大好評を博す。

「一谷嫩軍記」が歌舞伎で初演(江戸守田座・中村座)。

並木正三が「けいせい天羽衣」で舞台の三間四方をせり上げるなど、舞台機構にさまざまな工夫を凝らし始める。

長唄「京鹿子娘道成寺(きょうがのこむすめどうじょうじ)」初演。初代杵屋弥三郎作曲、藤本斗文作詞。

 

1754(宝暦4)

二代目海老蔵(二代目團十郎)、門弟(実子とも?)の二代目松本幸四郎を養子とし、四代目市川團十郎を継がせる。四代目市川團十郎の実子(幸蔵)が三代目松本幸四郎を襲名。

 

1755(宝暦5)

のちの四代目鶴屋南北が生まれる。

 

1756(宝暦6)

二代目竹田出雲が死去。

 

1758(宝暦8)

並木正三「三拾石艠始(さんじっこくよふねのはじまり)」で舞台を何度も廻す転換を見せる。以前にも存在した「廻して転換する方法」は、この時初めて舞台の下を掘り下げ、奈落の下に張られた網を引いて転換する、という大掛かりな方法がとられた。《廻り舞台》のはじまりとなる。

 

1763(宝暦13)

歌舞伎十八番の1つ「蛇柳」が初演される。

 

1764(明和1)

豊竹若太夫(越前小掾)が死去。人形浄瑠璃界に暗雲が立ち込め始める。

 

1765(明和2)

豊竹座の経営権が人手に移る。

 

1769(明和6)

のちの二代目文字太夫が初代文字太夫の脇語りに抜擢される。

 

1770(明和7)

四代目市川團十郎、実子の三代目松本幸四郎に五代目團十郎を譲り、自らは二代目幸四郎に戻った。

 

1771(明和8)

竹本座が完全に閉じ、歌舞伎芝居の小屋となる。

 

1773(安永2)

文字太夫・64歳。市村座「錦敷色義仲」を最後に引退。隠居名を松根亭松寿斎とする。

 

1774(安永3)

歌舞伎十八番の1つ「鎌髭」が初演される。

 

1775(安永4)

舞踊の名手三代目坂東三津五郎が生まれる。

 

1776(安永5)

源蔵(のちの四代目鶴屋南北)、初代桜田治助の門に入り、金井三笑、並木五瓶、中村重助、増山金八らに師事し、下積み時代が30年ほど続く。

 

1778(安永7)

四代目市川團十郎没。

舞踊の名手三代目中村歌右衛門が生まれる。

 

1781(天明1)

初代常磐津文字太夫没。享年72歳。

 

1784(天明4)

初代中村仲蔵が「積恋雪関扉(つもるこいゆきのせきのと)・常磐津」を初演。二代目文字太夫節附、初代鳥羽屋里長作曲。

 

1787(天明7)

初代常磐津文字太夫の七回忌に、文字太夫遺族から「一代限りの条件」で、初代兼太夫が二代目常磐津文字太夫を継承する。

 

1788(天明8)

常磐津「戻駕色相肩(もどりかごいろにあいかた)」が初演。二代目文字太夫節付、初代鳥羽屋里長作曲、初代桜田治助作詞。

松平定信が寛政の改革を行い、歌舞伎界も大きな打撃を受ける。

 

1792(寛政4)

のちの三代目文字太夫(林之助)が生まれる。

 

1794(寛政6)

初代並木五瓶が江戸へ下り、上方風の作劇方法を導入。江戸歌舞伎に新味を加える。

 

1799(寛政11)

六代目市川團十郎急死。五代目團十郎が市川白猿の名で舞台に戻る。

二代目常磐津文字太夫没。林之助が二代目常磐津小文字太夫を襲名。

二代目兼太夫(二代目文字太夫の弟)が別派吾妻派を興す。

 

1800(寛政12)

市川家元祖百年忌追善興行で、孫のゑび蔵が七代目市川團十郎を襲名する。

 

1804(文化1)

源蔵(のちの四代目鶴屋南北)、初代尾上松助のために書き下ろした「天竺徳兵衛韓噺(てんじくとくべえうきよばなし)」が江戸河原崎座で大当たりを博し、脚光を浴び始める。

源蔵、四代目鶴屋南北を襲名。初代尾上松助とともに怪談物を、七代目市川團十郎・三代目尾上菊五郎・五代目岩井半四郎、五代目松本幸四郎らとともに生世話物をそれぞれ確立した。

淡路の浄瑠璃語り嘉太夫(雅号・文楽軒)が大阪稲荷神社内に小さな小屋を建てる。

 

1810(文化7)

初代文楽軒没。

 

1811(文化8)

二代目文楽軒が浄瑠璃小屋を正式に開場。経営を始め、基礎を固める。以降、三代目の文楽翁に引き継がれる。人形浄瑠璃は「文楽軒の芝居」と言われ、明治4年以降、芝居小屋は文楽座と呼ばれるようになったので、現在では人形浄瑠璃=文楽と呼ばれるようになる。

三代目坂東三津五郎が七変化舞踊「七枚続花の姿絵(しちまいつづきはなのすがたえ)を上演したのに対し、三代目中村歌右衛門が「遅桜手爾葉七文字(おそざくらてにはのななもじ)」を上演し、江戸中の評判となる。

 

1813(文化10)

江戸森田座で「お染久松色読販(おそめひさまつうきなのよみうり)・お染の七役」が初演。四代目鶴屋南北作。

 

1815(文化12)

江戸河原崎座で、変化舞踊「伊達の十役」が初演される。

 

1825(文政8)

江戸中村座で、「仮名手本忠臣蔵」の世界を用いた外伝、南北の代表的な生世話狂言である「東海道四谷怪談(とうかいどうよつやかいだん)が初演。

江戸中村座で、「東海道四谷怪談」の後日譚、並木五瓶の「五大力恋緘(ごだいりきこいのふうじめ)」の書き換え、「仮名手本忠臣蔵」の外伝としての性格を持つ「盟三五大切(かみかけてさんごたいせつ)」が初演。

 


ラスカルさん
なるほどー!鶴屋南北って「四代目」のことを指すのね!
パンダくん
うん!鶴屋南北は何人もいるんだけど、四代目が特にすごい人なんだ!
レッサーさん
うん!「大南北」とも言われているよね!

 





レッサーさんの歌舞伎入門「大歌舞伎」のコーナー! 日本の伝統芸能で一番有名な歌舞伎! 日本人ならキチンと知っておきたいよね!

それでは、次回をお楽しみに!しば~ら~く~!

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