【大歌舞伎】歌舞伎の歴史⑪ 人形浄瑠璃→文楽

日本は伝統を大切にする国です。雅楽・能楽・文楽・歌舞伎。大きくカテゴライズしても、この4大ジャンルに分類できます。この中でも、1番歴史が浅いのですが、世界中で最も認知度が高いのがKABUKIです。庶民の娯楽としておよそ400年前に誕生してから、昭和40年には重要無形文化財に認定され、平成21年にはユネスコから世界無形文化遺産に登録され、現在まで続いています。

ラスカルさん
今日も歌舞伎のことをどんどん話していくわよ~!
パンダくん
うん!少し、人形浄瑠璃についてもおさらいしときたいよね!
レッサーさん
そう!歌舞伎と人形浄瑠璃は深く関係しているからね!

 





 


 

さて。現在では人形浄瑠璃のことを「文楽」と言います。これは人形浄瑠璃小屋の興行者「文楽軒」に由来するもので、人形浄瑠璃の芝居小屋は、他にも色々あり、とくに初代竹本義太夫が設立した「竹本座」、その門弟の初世豊竹若太夫(越前少掾)が設立した「豊竹座」などが有名です。当時は「人形浄瑠璃」と言われていました。これらを踏まえて考察して行きましょう。

 

【浄瑠璃のおさらい】

平安時代にできた当道座で、鎌倉時代には読み物の平家物語を琵琶で伴奏するスタイル「平曲」が確立されます。室町時代には巷で流行っていた浄瑠璃姫物語を琵琶で伴奏するようになります。安土桃山時代に三味線が伝来しだすと、滝野検校・澤住検校が「浄瑠璃」に三味線を利用します。

一方、別ルートでは、平安時代に傀儡子が登場します。室町時代には傀儡子の流れをくむ「西宮の夷舁き」が登場し、江戸時代(初期)には、杉山丹後掾・薩摩浄雲が江戸浄瑠璃開祖として、その門下からは多くの浄瑠璃太夫が誕生します。三味線で伴奏される浄瑠璃が人形操りとドッキングして人形浄瑠璃となったのも、ちょうどこの頃です。

江戸初期の浄瑠璃は「古浄瑠璃」といいます。なぜなら竹本義太夫という歴史に残る大スターが、すい星のごとく出現したからです。義太夫の語った出世景清(1685・貞享2年)からを「当流」といい、ここから現代にまで受け継がれる浄瑠璃の基盤となりました。

竹本義太夫の概略はコチラ(【大歌舞伎】歌舞伎の歴史④ 竹本義太夫と宮古路豊後掾)です。1684(貞享元)に大坂道頓堀に竹本座を開場して座本となり、旗揚げとして「世継曽我」を上演しました。しかし、夜討曽我は前年に、師である宇治加賀掾のために近松門左衛門が執筆したもので、ここから宇治加賀掾・竹本義太夫の師弟対決が幕を上げるのです。

翌年1685(貞享2)に道頓堀に宇治加賀掾一座が乗り込んできます。バトルは1戦目で義太夫の勝利、2戦目で加賀掾の勝利と拮抗した場面で、加賀掾一座がまさかの火事を起こし撤退。義太夫が大阪・道頓堀を勝ち取ります。1698(元禄11)には、竹本筑後掾掾号を得て、同年に曽根崎心中という大ヒット作を作り出します。旗揚げしてから曾根崎心中を世に出すまでのこの期間(1679~1698)には、師である宇治加賀掾のほか、カラクリ芝居の伊藤出羽掾や、手妻人形の山本飛騨掾などがライバルでした。ちなみに義太夫は色々な師匠に師事しており、メインは井上播磨掾の弟子の清水理兵衛と言われています。

江戸開府100年にあたる1703(元禄16)、義太夫一座から竹本采女(たけもとうねめ)が退座し、豊竹若太夫と名のって道頓堀東に豊竹座を興します。1705(宝永2)には経営の竹田出雲、座付作者の近松門左衛門とタッグを組み、竹本義太夫は芸道に専念するという新体制がスタート。地味で堅実な気質のあった竹本座は、当時15歳の竹田出雲が経営に参加してからは、人形・衣装・大道具などが華やかになり、従来の芸術至上主義から路線を変更しました。

近松は1691からの約10年のあいだ、歌舞伎狂言の修行をしていましたが、この時から再び浄瑠璃を積極的に書くようになります。近松が義太夫のために書いた作品が、時代物79、世話物24(うち心中物15)、姦通物7で、歌舞伎作品40に比べ、3倍に達しそうなほど多くの作品を書いています(ちなみに近松は宮古路豊後掾などにも浄瑠璃を書いています)。

義太夫のライバルとして、1703(元禄16)に道頓堀東に豊竹座を興した豊竹若太夫ですが、そのあと興行に失敗して旅に出ます。再び竹本座に戻ると、1705(宝永2)には辰松八郎兵衛(人形)・紀海音(作者)とともに豊竹座を再興し、それ以降「竹・豊」で対抗しあい多くの作品を作り出しました。1765(明和2)に経営権が人手に渡り、1771(明和8)には竹本座も完全に閉じ、歌舞伎芝居の小屋になってしまいます。地味で堅実な気質の竹本座(西風)と派手で写実的な豊竹座(東風)と言われていました。

1714(正徳4)に竹本義太夫が死去。そのあとは竹本政太夫(のちの筑前小掾)が後継に選ばれました。1725(享保9)には近松門左衛門も死去。竹本政太夫と同年配の竹田出雲が狂言作品を書くようになります。1747(延享4)に元祖出雲こと初代竹田出雲が死去。あとは親方出雲とのちに呼ばれる二代目竹田出雲に引き継がれました。1764(明和1)には豊竹若太夫(越前小掾)も死去します。

この大きな存在を次々に失った人形浄瑠璃界は、人気を博していた歌舞伎に押され、浄瑠璃作品も歌舞伎に輸出されていきます(丸本物)。決して人形浄瑠璃が歌舞伎に劣っていたわけではなく、1624(寛永元)にはすでに猿若勘三郎(初代中村勘三郎)によって興された常設の芝居小屋「猿若座(中村座)」が誕生し、市村座、山村座、森田座などがあり、頑強な経営形式を持ち、華やかな興行を行い続けることが可能であったことが、重要なポイントになっていたのかもしれません。

豊竹座・竹本座がなくなって以降、歌舞伎の人気におされていた人形浄瑠璃ですが、1804(文化1)に、淡路の浄瑠璃語り嘉太夫(雅号・文楽軒)が大阪に小さな小屋を建て、子の二代目が基礎をかためて、三代目の文楽翁に引き継がれて繁盛し、これが人形浄瑠璃の歴史に重要なであることから、現在では人形浄瑠璃=文楽と呼ばれるようになりました。

 

1635(寛永12年)

宇治加賀掾生まれる。

 

1647(正保4)

初代坂田藤十郎生まれる。

 

1651(慶安4)

竹本義太夫生まれる。

 

1653(承応2)

近松門左衛門生まれる。

 

1660(万治3年)

宮古路豊後掾(都国太夫半中)生まれる。

初代市川團十郎が生まれる。

現在の銀座5丁目に、森田太郎兵衛(初代森田勘彌)が「森田座」を立ち上げる。これにより「江戸四座(中村座・市村座・山村座・森田座)+河原崎座」が出揃う。

 

1662(寛文1)

初代中村七三郎(江戸・和事)が生まれる。生島新五郎(和事師)が七三郎の芸を受け継ぎ、のちに二代目團十郎に影響を与えた。これにより、のちの二代目團十郎は、荒事芸(初代團十郎)に和事味(生島新五郎)を加味した、独自の芸風を育て、のちに「助六」「毛抜」などが誕生した。

 

1663(寛文3)

後継者不在のため、森田座が河原崎座を吸収合併。

 

1669(寛文9)

都越後掾(都万太夫)、芝居の興行権を免許され名代となる。京都四条に都万太夫座(現在に南座)を立ち上げる。

 

1673(延宝元)

初代芳沢あやめが生まれる。

 

1675(延宝3)

宇治加賀掾が京都四条で人形芝居の一座を立ち上げる。

 

1676(延宝4)

初代坂田藤十郎。京都・都万太夫座で初舞台。

 

1678(延宝6)

初代坂田藤十郎、「夕霧名残の正月」で伊左衛門を演じ人気を博す。生涯に18回演じるほどの当たり役となり「夕霧に芸たちのぼる坂田かな」と謳われる。のちの「廓文章」に大きな影響を与えた。

 

1681(天和1)

豊竹若太夫生まれる。

 

1683(天和3)

近松門左衛門が加賀掾のために「世継曽我」を書く。上演。

 

1684(貞享元)

竹本義太夫が大坂道頓堀に「竹本座」を開場して座本となる。この旗揚げとして「世継曽我」を上演。

 

1685(貞享2)

竹本義太夫が「出世景清」を上演。浄瑠璃の転換期となる。道頓堀に宇治加賀掾一座が乗り込むが、火事を起こし敗退する。

初代市川團十郎が、従来の初期歌舞伎から存在する「荒武者事」と「金平浄瑠璃(坂田金時の息子・金平の武勇譚)」とを加味して「歌舞伎における荒事芸」を完成させる(金平六条通い)。

初代坂田藤十郎が、遊郭の通う美男子の若旦那が放蕩三昧の末、勘当されて、落ちぶれた姿で馴染の遊女のもとへ通うという「和事」を確立(やや同時期)。「廓文章(1808)」の原典に当たる「夕霧名残の正月」の藤屋伊左衛門を生涯で18回も演じる。

初代澤村宗十郎(初代助高屋高助)生まれる。

 

1686(貞享3)

竹本座上演の「佐々木大鑑」で、初めて「近松門左衛門」の名を出す(それまでは狂言作者の名を面に出す慣例がなかった)。

 

1688(元禄1)

二代目市川團十郎が生まれる。初代團十郎が成田山新勝寺(成田不動)に子宝の願をかけたところ見事生れた子だったので「不動の申し子」といわれた。

 

1691(元禄4)

初代竹田出雲生まれる。

 

1693(元禄6)

これより10年ほど、近松門左衛門歌舞伎作者となり、都万太夫座(京都)に出勤。坂田藤十郎が得意とした「やつし」「長せりふ」を巧みに取り入れた芝居の台本を書くようになる(けいせい仏の原・けいせい壬生大念仏・けいせい浅間嶽など)。その後は浄瑠璃に戻ったが、歌舞伎作者として学んだ「歌舞伎の趣向」が「人形浄瑠璃」の作に生かされることになった。

初代市川團十郎、上洛して京都の舞台に出演するが評判は悪く、1年あまりで江戸に帰る。

初代瀬川菊之丞生まれる。

 

1695(元禄8)

坂田藤十郎、京都・都万太夫座の座元になる。

並木宗輔生まれる。以降、竹本・豊竹両座で活躍。

 

1697(元禄10)

初代市川團十郎、のちに歌舞伎十八番に加えられる「暫(しばらく)」を初演。

二代目市川團十郎、「兵根元曾我(中村座)」で初舞台。

 

1698(元禄11)

初代芳沢あやめ、「傾城浅間嶽」の傾城三浦役が人気を博す。

竹本義太夫、竹本筑後掾の掾号を得る。

竹本義太夫、曽根崎心中で好評を得る。

 

1703(元禄16)

義太夫一座の竹本采女が豊竹若太夫(22)と名のり、道頓堀東に豊竹座を興す。

 

1704(元禄17)

初代市川團十郎、市村座で、役者の生島半六(自身の息子が虐待を受けたことで團十郎を恨んでいた)に舞台上で刺殺される。

二代目市川團十郎、父の初代團十郎の横死によって、山村座で二代目を襲名する。

 

1705(宝永2)

竹本義太夫(54)、経営・竹田出雲(14)、座付作者・近松門左衛門(52)とタッグを組み、従来の芸術至上主義から路線変更し、華やかな舞台演出となる。*ちなみに豊竹若太夫はこの時24歳。

 

1708(宝永5)訴訟により、浅草弾左衛門支配(江戸)からの独立を果たす。

初代坂田藤十郎「夕霧」を最後に舞台活動から去る。

 

1709(宝永6)

初代常磐津文字太夫生まれる。本名:駿河屋文右衛門。京都の仏具商。

初代坂田藤十郎没。

 

1711(正徳1)

のちの三代目市川團十郎生まれる。

 

1713(正徳3)

二代目市川團十郎。「花館愛護桜(山村座)」で助六を初めて勤めたころから徐々に人気を得るようになる。

 

1714(正徳4)

竹本義太夫死去竹本政太夫(のちの筑前小掾)が後継に選ばれる。

江島生島事件で山村座は官許取り消して廃座。以降「江戸三座(中村座・市村座・森田座)」になる。

初代芳沢あやめ、江戸に下っていたが帰京。

のちの四代目市川團十郎が初代松本幸四郎の養子(松本七蔵・享保5)となり、女方をつとめる。

 

1715(正徳5)

国性爺合戦(こくせんやかっせん)が人形浄瑠璃で初演(近松門左衛門作)。

 

1716(正徳6)

初代芳沢あやめ、役者評判記「三ヶ津惣芸頭」で高い評価を受ける。

国性爺合戦歌舞伎に取り上げられる(京都・大阪)。

第8代将軍徳川吉宗の「享保の改革」が始まり、江戸の歌舞伎界は大打撃を受けるが、興業システムが完成される(正月には必ず曽我狂言を上演するなど)。

 

1717(享保7)

国性爺合戦が江戸三座で競演されるようになる。以降、人形浄瑠璃の新作が、すぐに歌舞伎化されるようになる。

 

1720(享保5)

容姿顔貌は十人並みで声はしゃがれて低かったことから廃業していた初代瀬川菊之丞が3年ぶりに復帰。かつての地味さはなくなり、艶やかな役者ぶりで、その芸が認められ次第に評判となる。

 

1721(享保6)

二代目市川團十郎が「千両役者」と呼ばれ大スターとなる。

 

1723(享保8)に

都国太夫半中、師が没したので都路国太夫と改名し独立。

竹田出雲・松田和吉の合作した「大棟宮曦鎧(おおとうのみやあさひのよろい)」を近松門左衛門が添削し、複数人が戯曲を書く「合作制度」の完成度が高まった。

人形浄瑠璃では、一人遣いが三人遣いになり、より人間に近い演技が可能となった。

 

1725(享保9)

近松門左衛門が死去。初代竹田出雲が狂言作品を書くようになる。

 

1728(享保13)

初代芳沢あやめ引退。

初代瀬賀菊之丞、京・市山座「けいせい満蔵鑑」の「無間の鐘」で名声を博す。

 

1729(享保14)

初代芳沢あやめ没。

 

1730(享保15)

都路国太夫、宮古路豊後と改名し豊後節(のちに多くの豊後系浄瑠璃を生み出す本家本元)を創始。

初代瀬川菊之丞、江戸へ下り「三都随一の女方」と讃えられる。

 

1731(享保16)

豊後節、豊後掾のスタイルを真似た「文金風」が大ブームとなるが、江戸で豊後節が禁止(1度目)されてしまう。宮古路豊後71歳・宮古路右膳(のちの文字太夫)22歳。

のちの二代目文字太夫が生まれる。

 

1732(享保17)

宮古路豊後、高弟である宮古路右膳を伴い名古屋に進出する。

 

1733年(享保18)

宮古路右膳(駿河屋文右衛門)が、宮古路文字太夫と改名。24歳

夏。名古屋の「闇の森(くらがりのもり)」にて、日置の畳屋伊八と飴屋町花村屋抱え遊女おさんが心中を成し、未遂に終った事件が起きる。

 

1734(享保19)

宮古路豊後が「おさん伊八の心中事件」を題材に「睦月連理椿(むつきれんりのたまつばき)」を書き下ろし、名古屋広小路・黄金薬師で初演し、大評判*となる。掾号を受領して宮古路豊後掾橘盛村となり、大劇場である江戸中村座に進出する。

*宮古路文字太夫はワキ。25歳。

初代瀬川菊之丞が「風流相生獅子」を上演。「石橋(しゃっきょう)もの」の源流となる。

 

1735(享保20)

借金返済で破綻し休座していた森田座の控え櫓として、二代目河原崎権之助が森田座代興行権を引き当て、河原崎座を復興。

二代目市川團十郎、門弟の市川升五郎に三代目團十郎を譲り、自らは二代目市川海老蔵(初代團十郎の幼名が初代海老蔵)を襲名する。

松本七蔵が二代目松本幸四郎を襲名。

 

【享保年間】

上方から下った坂田兵四郎が新風を吹き込み、冨士田吉次が音楽的な幅を広げ、江戸長唄が確立した。同時に黒御簾(くろみす)音楽が整備され始める。従来は女方のみが舞踊を踊っていたが、この頃から立役の舞踊も増えていった。

 

1736年(元文元年)

宮古路文字太夫、3月の市村座「小夜中山浅間巌」で立語りとなったが、町奉行より風紀を乱すとの理由で、豊後節大弾圧を受け全面禁止(2度目)。豊後掾76歳・文字太夫27歳。

 

1738(元文3)

江戸での舞台を弟子にまかせ、自身は再び上方に戻り、宮古路豊後掾自身は上方(京阪)の劇場で活躍する。

 

1739(元文4)

江戸町奉行水野勝彦によって、浄瑠璃太夫の名を出すこと、稽古場の看板をあげること、文金風を真似ること等が禁止され、豊後節非常に厳しい弾圧(3度目)を受ける。豊後掾79歳・文字太夫30歳。

人形浄瑠璃では「ひらかな盛衰記」が初演。傾城「梅が枝」が、手水鉢を使っての無間の鐘を演じる場面(四段目)は、初代瀬川菊之丞の「無間の鐘」の演技を写したものとされる。

 

1740(元文5)

宮古路豊後掾没。文字太夫31歳。

 

1741(寛保1)

三代目市川團十郎没。「毛抜」の初演時。享年22歳。

のちの五代目市川團十郎が生まれる。

 

1744(延享元)

初代瀬川菊之丞、「百千鳥娘道成寺」に出演。「道成寺もの」の源流となる。のちに初代中村富十郎が「娘道成寺」を踊るにあたり参考にした。

 

 

1745(延享2)

宮古路加賀太夫が脱退。のちに新内節へとつながる(富士松薩摩掾→鶴賀新内)。

宮古路園八が脱退。のちに宮園節へとつながる(二代目園八→宮薗鸞鳳軒)。

 

1746年(延享3年)

宮古路文字太夫37歳。豊後掾七回忌に際して浅草寺境内に宮古路豊後掾の慰霊碑を建立。

三代名作の一つ「菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ・竹田出雲・並木千柳・三好松洛・竹田小出雲の合作)」が大阪竹本座で初演(人形浄瑠璃)。すぐさま京都中村喜世三郎座で初演(歌舞伎)。

 

1747年(延享4)

文字太夫・38歳。宮古路姓を改め関東文字太夫と名乗るが北町奉行から禁止。同年11月「二代目市川團十郎・初代澤村宗十郎・初代瀬川菊之丞」が揃った「三千両の顔見世(中村座)」で常磐津文字太夫の狼煙をあげ、常磐津を創流。

元祖出雲こと初代竹田出雲が死去。あとは親方出雲とのちに呼ばれる二代目竹田出雲に引き継がれる。

三代名作の一つ「義経千本桜(よしつねせんぼんざくら)、二代目竹田出雲・三好松洛・並木千柳の合作」が大阪竹本座で初演。

 

1748年(延享5)

文字太夫・39歳。弟弟子である初代常磐津小文字太夫(前名・宮古路小文字太夫)が独立し、富本節を興す。のちに清元節へとつながる。

三代名作の一つ「義経千本桜」が歌舞伎にうつされる(伊勢の芝居)。

三代名作の一つ「仮名手本忠臣蔵(かなてほんちゅうしんぐら)」が大阪竹本座で初演。すぐさま歌舞伎にうつされる(大阪嵐三五郎座)。

 

1751(宝暦1)

並木宗輔(千柳)が死去。その絶筆作「一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)」が大阪豊竹座で初演。

 

1753年(宝暦3)

文字太夫・44歳。市村座での「鐘入妹背俤」の出語りで大好評を博す。

一谷嫩軍記」が歌舞伎で初演(江戸守田座・中村座)。

並木正三が「けいせい天羽衣」で舞台の三間四方をせり上げるなど、舞台機構にさまざまな工夫を凝らし始める。

長唄「京鹿子娘道成寺(きょうがのこむすめどうじょうじ)」初演。初代杵屋弥三郎作曲、藤本斗文作詞。

 

1754(宝暦4)

二代目海老蔵(二代目團十郎)、門弟(実子とも?)の二代目松本幸四郎を養子とし、四代目團十郎を継がせる。四代目市川團十郎の実子(幸蔵)が三代目松本幸四郎を襲名。

 

1756(宝暦6)

二代目竹田出雲が死去。

 

1758(宝暦8)

並木正三「三拾石艠始(さんじっこくよふねのはじまり)」で舞台を何度も廻す転換を見せる。以前にも存在した「廻して転換する方法」は、この時初めて舞台の下を掘り下げ、奈落の下に張られた網を引いて転換する、という大掛かりな方法がとられた。廻り舞台のはじまりとなる。

 

1764(明和1)

豊竹若太夫(越前小掾)が死去。竹本義太夫(1714没)・近松門左衛門(1725没)・初代竹田出雲(1747没)・並木千柳(1751没)・二代目竹田出雲(1756没)・豊竹若太夫(1764没)と50年の間に名人上手を失った人形浄瑠璃界には暗雲が立ち込め始める。

 

1765(明和2)

豊竹座の経営権が人手に移る。

 

1769(明和6)

のちの二代目文字太夫が初代文字太夫の脇語りに抜擢される。

 

1770(明和7)

四代目市川團十郎、実子の三代目松本幸四郎に五代目團十郎を譲り、自らは二代目幸四郎に戻る。

 

1771(明和8)

竹本座が完全に閉座、歌舞伎芝居の小屋となる。

 

1773(安永2)

文字太夫・64歳。市村座「錦敷色義仲」を最後に引退。隠居名を松根亭松寿斎とする。

 

1778(安永7)

四代目市川團十郎没。

 

1781(天明1)

初代常磐津文字太夫没。享年72歳。

 

1784(天明4)

初代中村仲蔵が「積恋雪関扉(つもるこいゆきのせきのと)・常磐津」を初演。初代兼太夫(のちの二代目文字太夫)節附、初代鳥羽屋里長作曲。

 

1787(天明7)

初代常磐津文字太夫の七回忌に、文字太夫遺族から「一代限りの条件」で、初代兼太夫が二代目文字太夫を継承する。

 

1788(天明8)

常磐津「戻駕色相肩(もどりかごいろにあいかた)」が初演。二代目文字太夫節付、初代鳥羽屋里長作曲、初代桜田治助作詞。

松平定信が寛政の改革を行い、歌舞伎界も大きな打撃を受ける。

 

1792(寛政4)

のちの三代目文字太夫(林之助)が生まれる。

 

1794(寛政6)

初代並木五瓶が江戸へ下り、上方風の作劇方法を導入。江戸歌舞伎に新味を加える。

 

1799(寛政11)

六代目市川團十郎急死。五代目團十郎が市川白猿の名で舞台に戻る。

二代目常磐津文字太夫没。林之助が二代目小文字太夫を襲名。

二代目兼太夫(二代目文字太夫の弟)が常磐津別派吾妻派を興す。

 

1800(寛政12)

市川家元祖百年忌追善興行で、孫のゑび蔵が七代目市川團十郎を襲名する。

 

1804(文化1)

淡路の浄瑠璃語り嘉太夫(雅号・文楽軒)が大阪稲荷神社内に小さな小屋を建てる。

 

1810(文化7)

初代文楽軒没

 

1811(文化8)

二代目文楽軒が浄瑠璃小屋を正式に開場。経営を始め、基礎を固める。以降、三代目・文楽翁に引き継がれる。人形浄瑠璃は「文楽軒の芝居」と言われ、明治4年以降、芝居小屋は文楽座と呼ばれるようになったので、現在では人形浄瑠璃=文楽と呼ばれるようになる。

 


ラスカルさん
なるほど!昔から「文楽」って言うのかと思っていたわよ!
パンダくん
うん!文楽軒の芝居、3代目文楽翁、それに文楽座と呼ばれてから「文楽」という名前が定着したんだね!
レッサーさん
だから専門家の先生や歌舞伎関係の大学教授さんは「文楽」よりも「人形浄瑠璃」「浄瑠璃」という方も多いよね!

 





レッサーさんの歌舞伎入門「大歌舞伎」のコーナー! 日本の伝統芸能で一番有名な歌舞伎! 日本人ならキチンと知っておきたいよね!

それでは、次回をお楽しみに!しば~ら~く~!

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