【大歌舞伎】歌舞伎の歴史⑩ 宮古路文字太夫→常磐津文字太夫

日本は伝統を大切にする国です。雅楽・能楽・文楽・歌舞伎。大きくカテゴライズしても、この4大ジャンルに分類できます。この中でも、1番歴史が浅いのですが、世界中で最も認知度が高いのがKABUKIです。庶民の娯楽としておよそ400年前に誕生してから、昭和40年には重要無形文化財に認定され、平成21年にはユネスコから世界無形文化遺産に登録され、現在まで続いています。

ラスカルさん
今日も楽しみながら歌舞伎を学んでいきましょうね!
パンダくん
うん!浄瑠璃には~~節って色々あるんだね!
レッサーさん
そう!今回は豊後節から生まれた常磐津節の話だよ!

 





 


 

文金風が大ブレイクし、豊後節の最初の禁止が行われたのが1731(享保16)、豊後掾71歳です。2度目の全面禁止は名古屋から帰ったあとの1736年(元文元年)、3度目の大弾圧は、豊後掾76歳、1739(元文4)、豊後掾79歳です。文金風というのは豊後掾のスタイルを真似たものと言われており、長羽織・長キセル・文金高島田の原型が特徴的です。

 

現在でも男性の羽織は短めが基本。文金高島田も花嫁が和式の結婚式で用いる髪型です。それにお小姓が先を持っていたと言われる長いキセル。想像できましたでしょうか? そう。まさに宮古路豊後掾は、現代でいうところの「ヴィジュアル系」です。禁止や弾圧を受けるほどの影響力を持った70~80歳のおじいさん……う~ん、想像しにくいお年寄りのロッケンローラーですね! ですから、実際に人気があり、大弾圧を受けたターゲットは、宮古路豊後掾の高弟であり養子の、宮古路文字太夫と言われています。

 

宮古路文字太夫は、のちに歌舞伎伴奏になくてはならない「常磐津節」を創始した初代常磐津文字太夫の豊後節時代の名です。それでは、豊後節大弾圧でもっとも重要人物である、初代常磐津文字太夫(宮古路文字太夫)の軌跡を辿ってみましょう!

 

【常磐津文字太夫(宮古路文字太夫)】

1709(宝永6)生まれ。本名を駿河屋文右衛門という京都の仏具商の出身。宮古路豊後掾の「都路国太夫・宮古路国太夫(1723・享保8~1730・享保15)」時代に弟子入りし、初めは宮古路右膳と名のっていました。文字太夫は14~21歳です。

 

1733年(享保18・24歳)に宮古路文字太夫と改名し京都から名古屋を経て江戸に下り、1735年(享保20・26歳)に好評を博した豊後掾の出世作「睦月連理玉椿」でワキ語りを勤めます。1736年(元文元年・27歳)の3月の市村座「小夜中山浅間巌」で立語りとなりましたが、町奉行より風紀を乱すとの理由で、豊後節(とくに文字太夫)は大弾圧を受け全面禁止となります。

 

1740年(元文5・31歳)に養父豊後掾が亡くなると、1746年(延享3年・37歳)には豊後掾七回忌に際して浅草寺境内宮古路豊後掾の慰霊碑を建立します。豊後節はそのあと分派活動を始めましたが、やがて豊後節の再興が許されます。

 

1747年(延享4年・38歳)に宮古路姓を改め関東文字太夫と名乗りましたが「関東の名は穏やかならず」と北町奉行から禁止されます。同じ年11月の中村座で「二代目市川團十郎・初代澤村宗十郎・初代瀬川菊之丞」が揃った「三千両の顔見世」で常磐津文字太夫の看板を掲げて大当たりを得ます。

*ちなみに1748年(延享5・39歳)には、豊後節(宮古路姓)時代からの弟弟子である初代常磐津小文字太夫が独立し富本節(のちに清元節が排出される)を創流します。

 

1753年(宝暦3・44歳)春、市村座での「鐘入妹背俤」の出語りで大好評を博すなど、30年ものあいだ江戸三座(中村座・市村座・森田座)で活躍し、1773年(安永2年・64歳)市村座「錦敷色義仲」を最後に引退しました(隠居名(号)松根亭松寿斎)。

 

以前に書いた通り、豊後節は煽情的で武家の子息令嬢に心中を促したほど色気があったようです。しかし、文字太夫の創始した常磐津節は義太夫節の武張った要素を取り入れ、色気を残しながら重厚さを増し、よりドラマティックにしたものとされています。常磐津節は世話物と時代物のバランスが良く、節付けの面白さ、巧妙な作詞、役者による優れた所作と三拍子が揃っていたので、豊後節を継承した新しい浄瑠璃として江戸歌舞伎に定着します。そして1781(天明元年・72歳)に亡くなります。

 

1647(正保4)

初代坂田藤十郎生まれる。

 

1660(万治3年)

宮古路豊後掾(都国太夫半中)生まれる。

初代市川團十郎が生まれる。

現在の銀座5丁目に、森田太郎兵衛(初代森田勘彌)が「森田座」を立ち上げる。これにより「江戸四座(中村座・市村座・山村座・森田座)+河原崎座」が出揃う。

 

1662(寛文1)

初代中村七三郎(江戸・和事)が生まれる。生島新五郎(和事師)が芸を受け継ぎ、のちに二代目團十郎に影響を与えた。荒事芸(初代團十郎)に和事味(生島新五郎)を加味した、独自の芸風を育て、のちに「助六」「毛抜」などが誕生した。

 

1663(寛文3)

後継者不在のため、森田座が河原崎座を吸収合併。

 

1669(寛文9)

都越後掾(都万太夫)、芝居の興行権を免許され名代となる。京都四条に都万太夫座(現在に南座)を立ち上げる。

 

1673(延宝元)

初代芳沢あやめが生まれる。

 

1675(延宝3)

宇治加賀掾が京都四条で人形芝居の一座を立ち上げる。

 

1676(延宝4)

初代坂田藤十郎。京都・都万太夫座で初舞台。

 

1678(延宝6)

初代坂田藤十郎、「夕霧名残の正月」で伊左衛門を演じ人気を博す。生涯に18回演じるほどの当たり役となり「夕霧に芸たちのぼる坂田かな」と謳われる。のちの「廓文章」に大きな影響を与えた。

 

1683(天和3)

近松門左衛門が宇治加賀掾のために「世継曽我」を書く。上演。

 

1684(貞享元)

竹本義太夫が大坂道頓堀に「竹本座」を開場して座本となる。この旗揚げとして「世継曽我」を上演。

 

1685(貞享2)

竹本義太夫が「出世景清」を上演。浄瑠璃の転換期となる。

初代市川團十郎が、従来の初期歌舞伎から存在する「荒武者事」と「金平浄瑠璃(坂田金時の息子・金平の武勇譚)」とを加味して「歌舞伎における荒事芸」を完成させる(金平六条通い)。

初代坂田藤十郎が、遊郭の通う美男子の若旦那が放蕩三昧の末、勘当されて、落ちぶれた姿で馴染の遊女のもとへ通うという「和事」を確立(やや同時期)。「廓文章(1808)」の原典に当たる「夕霧名残の正月」の藤屋伊左衛門を生涯で18回も演じる。

初代澤村宗十郎(初代助高屋高助)生まれる。

 

1686(貞享3)

竹本座上演の「佐々木大鑑」で、初めて「近松門左衛門」の名を出す(それまでは狂言作者の名を面に出す慣例がなかった)。

 

1688(元禄1)

二代目市川團十郎が生まれる。初代團十郎が成田山新勝寺(成田不動)に子宝の願をかけたところ見事生れた子だったので「不動の申し子」といわれた。

 

1693(元禄6)

これより10年ほど、近松は歌舞伎作者となり、都万太夫座(京都)に出勤。坂田藤十郎が得意とした「やつし」「長せりふ」を巧みに取り入れた芝居の台本を書くようになる(けいせい仏の原・けいせい壬生大念仏・けいせい浅間嶽など)。その後は浄瑠璃に戻ったが、歌舞伎作者として学んだ「歌舞伎の趣向」が「人形浄瑠璃」の作に生かされることになった。

初代市川團十郎、上洛して京都の舞台に出演するが評判は悪く、1年あまりで江戸に帰る。

初代瀬川菊之丞生まれる。

 

1695(元禄8)

坂田藤十郎、京都・都万太夫座の座元になる。

 

1697(元禄10)

初代市川團十郎、のちに歌舞伎十八番に加えられる「(しばらく)」を初演。

二代目市川團十郎、「兵根元曾我(中村座)」で初舞台。

 

1698(元禄11)

初代芳沢あやめ、「傾城浅間嶽」の傾城三浦役が人気を博す。

 

1704(元禄17)

初代市川團十郎、市村座で、役者の生島半六(自身の息子が虐待を受けたことで團十郎を恨んでいた)に舞台上で刺殺される。

初代團十郎の横死によって、山村座で二代目市川團十郎を襲名する。

 

1708(宝永5)

訴訟により、浅草弾左衛門支配(江戸)からの独立を果たす。

初代坂田藤十郎「夕霧」を最後に舞台活動から去る。

 

1709(宝永6)

初代常磐津文字太夫生まれる。本名:駿河屋文右衛門。京都の仏具商。

初代坂田藤十郎没。

 

1713(正徳3)

二代目市川團十郎。「花館愛護桜(山村座)」で助六を初めて勤めたころから徐々に人気を得るようになる。

 

1714(正徳4)

江島生島事件で山村座は官許取り消して廃座。以降「江戸三座(中村座・市村座・森田座)」になる。

初代芳沢あやめ、江戸に下っていたが帰京。

 

1716(正徳6)

初代芳沢あやめ、役者評判記「三ヶ津惣芸頭」で高い評価を受ける。

 

1720(享保5)

容姿顔貌は十人並みで声はしゃがれて低かったことから廃業していた初代瀬川菊之丞が3年ぶりに復帰。かつての地味さはなくなり、艶やかな役者ぶりで、その芸が認められ次第に評判となる。

 

1721(享保6)

二代目市川團十郎が「千両役者」と呼ばれ大スターとなる。

 

1723(享保8)に

都国太夫半中、師が没したので都路国太夫と改名し独立。

 

1728(享保13)

初代芳沢あやめ引退。

初代瀬川菊之丞、京・市山座「けいせい満蔵鑑」の無間の鐘で名声を博す。

 

1729(享保14)

初代芳沢あやめ没。

 

1730(享保15)

都路国太夫、宮古路豊後と改名し豊後節(のちに多くの豊後系浄瑠璃を生み出す本家本元)を創始。

初代瀬川菊之丞、江戸へ下り「三都随一の女方」と讃えられる。

 

1731(享保16)

豊後節、豊後の情のスタイルを真似た「文金風」が大ブームとなるが、あまりの熱狂ぶりに、江戸で豊後節が禁止(1度目)されてしまう。豊後掾71歳・文字太夫22歳。

 

1732(享保17)

宮古路豊後、高弟である宮古路右膳を伴い名古屋に進出する。

 

1733年(享保18)

宮古路右膳(駿河屋文右衛門)が、宮古路文字太夫と改名。24歳

夏。名古屋の「闇の森(くらがりのもり)」にて、日置の畳屋伊八と飴屋町花村屋抱え遊女おさんが心中を成し、未遂に終った事件が起きる。

 

1734(享保19)

宮古路豊後掾が「おさん伊八の心中事件」を題材に「睦月連理椿(むつきれんりのたまつばき)」を書き下ろし、名古屋広小路・黄金薬師で初演し、大評判*となる。掾号を受領して宮古路豊後掾橘盛村となり、大劇場である江戸中村座に進出する。

*宮古路文字太夫はワキ。25歳。

 

1735(享保20)

借金返済で破綻し休座していた森田座の控え櫓として、二代目河原崎権之助が森田座代興行権を引き当て、河原崎座を復興。

二代目市川團十郎、門弟の市川升五郎に三代目團十郎を譲り、自らは二代目市川海老蔵(初代團十郎の幼名が初代海老蔵)を襲名する。

 

1736年(元文元年)

文字太夫、3月の市村座「小夜中山浅間巌」で立語りとなったが、町奉行より風紀を乱すとの理由で、豊後節は大弾圧を受け全面禁止(2度目)。豊後掾76歳・文字太夫27歳。

 

1738(元文3)

宮古路豊後、江戸での舞台を弟子にまかせ、自身は再び上方に戻り、京阪の劇場で活躍する。

 

1739(元文4)

江戸町奉行水野勝彦によって、浄瑠璃太夫の名を出すこと、稽古場の看板をあげること、文金風を真似ること等が禁止され、豊後節非常に厳しい弾圧(3度目)を受ける。豊後掾79歳・文字太夫30歳。

人形浄瑠璃では「ひらかな盛衰記」が初演。傾城「梅が枝」が、手水鉢を使っての無間の鐘を演じる場面(四段目)は、初代瀬川菊之丞の無間の鐘の演技を写したものとされる。

 

1740(元文5)

宮古路豊後掾、没。文字太夫31歳。

 

1742(寛保2)

三代目市川團十郎没。享年22歳。

 

1744(延享元)

初代瀬川菊之丞、「百千鳥娘道成寺」に出演。のちに初代中村富十郎が「娘道成寺」を踊るにあたり参考にした。

 

1745(延享2)

宮古路加賀太夫が脱退。のちに新内節へとつながる(富士松薩摩掾→鶴賀新内)。

宮古路園八が脱退。のちに宮園節へとつながる(二代目園八→宮薗鸞鳳軒)。

 

1746年(延享3年)

宮古路文字太夫37歳。豊後掾七回忌に際して浅草寺境内に宮古路豊後掾の慰霊碑を建立。

 

1747年(延享4)

文字太夫・38歳。宮古路姓を改め関東文字太夫と名乗るが北町奉行から禁止。同年11月「二代目市川團十郎・初代澤村宗十郎・初代瀬川菊之丞」が揃った「三千両の顔見世(中村座)」で常磐津文字太夫の狼煙をあげ、常磐津を創流。

 

1748年(延享5)

文字太夫・39歳。弟弟子である初代常磐津小文字太夫(前名・宮古路小文字太夫)が独立し、富本節を興す。のちに清元節へとつながる。

 

1753年(宝暦3)

文字太夫・44歳。市村座での「鐘入妹背俤」の出語りで大好評を博す。

 

1754(宝暦4)

二代目海老蔵(二代目團十郎)、門弟の二代目松本幸四郎を養子とし、四代目團十郎を継がせる。

 

1773年(安永2)

文字太夫・64歳。市村座「錦敷色義仲」を最後に引退。隠居名を松根亭松寿斎とする。

 

1781年(天明元年)

初代常磐津文字太夫没。享年72歳。

 


ラスカルさん
常磐津って、歌舞伎の音楽の中の1つだと思っていたけど。。。歴史上で重要なポジションにいるんだね!
パンダくん
うん!歌舞伎関係のどの本を読んでも載ってるよ!
レッサーさん
歴史がある流派なんだね!

 





レッサーさんの歌舞伎入門「大歌舞伎」のコーナー! 日本の伝統芸能で一番有名な歌舞伎! 日本人ならキチンと知っておきたいよね!

それでは、次回をお楽しみに!しば~ら~く~!

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