【大歌舞伎】歌舞伎の歴史⑧ 江島生島事件→山村座閉座

日本は伝統を大切にする国です。雅楽・能楽・文楽・歌舞伎。大きくカテゴライズしても、この4大ジャンルに分類できます。この中でも、1番歴史が浅いのですが、世界中で最も認知度が高いのがKABUKIです。庶民の娯楽としておよそ400年前に誕生してから、昭和40年には重要無形文化財に認定され、平成21年にはユネスコから世界無形文化遺産に登録され、現在まで続いています。

ラスカルさん
今日も楽しみながら歌舞伎を学んでいこう!
パンダくん
うん!歴史って面白いよね!
レッサーさん
そう!過去があるから現在があって、現在があるから未来があるんだ!

 





 


 

【速報】江島生島事件を発端に江戸四座が「江戸三座」に!?

 

江戸城大奥御年寄の江島(絵島)が歌舞伎役者の生島新五郎らを相手に遊興に及んだことが引き金となり、関係者1400名が処罰された綱紀粛正の世にいう「江島生島事件」が起きてしまうのです!

 

当時の徳川家第7代将軍「徳川家継」の生母「月光院」と前将軍家宣の正室「天英院」は2手に分かれ、大奥の女性たちを巻き込むアツいバトルを繰り広げている真っ最中でした。月光院に仕える御年寄である「江島」は、主人の名代として同じ年寄の宮路と一緒に上野寛永寺、増上寺へ、前将軍である6代将軍家宣の墓参りに赴いていました。

その帰途に、ついうっかり一緒にいた呉服商の誘いで山村座(現在の東京都中央区東銀座界隈。歌舞伎座周辺)で生島新五郎の芝居を見てしまったのです。さらに芝居の後、江島は生島らを茶屋に招いて宴会を開いて宴会に夢中になり、なんと!大奥の門限に遅れてしまったのです。

 

このセンセーショナルな一大事件が江戸城中に知れ渡り、ついに評定所が審理することになりました。この事件により天英院側が優勢となり、2年後に家継が亡くなると、天英院が推していた紀伊藩主「徳川吉宗」が8代将軍となったのです(一説では、この事件は月光院の失墜を狙った天英院の陰謀であったいう説があります)。

 

また、生島新五郎は初代市川團十郎を刺殺した生島半六の師匠の一人で、自分の弟子が初代市川團十郎を殺害してしまった責任を取り、親を亡くした幼い二代目市川團十郎の師匠になったという話です。

 

父・初代市川團十郎が歌舞伎に荒事をもたらし、それを「ひとつの芸」として完成させたのが二代市川目團十郎でした。若い頃に師事した生島新五郎が、初代中村七三郎の芸を受け継ぐ和事師だったので荒事芸+和事味という独自の芸風を育て、「助六」や「毛抜」のような演目が初演されました。さらに荒事・和事だけではなく、実事、濡事、やつしにいたるまで幅広い芸域をもち、また隈取の技法や様式を完成させたのもこの二代目だといいます。

 

1603(慶長8)

徳川家康によって徳川幕府が開かれる。出雲阿国が京都で「阿国かぶき」という念仏踊りを踊りはじめる。

 

1624(寛永元)

現在の京橋辺りに、猿若勘三郎(初代中村勘三郎)が常設の芝居小屋「猿若座(中村座)」を立ち上げる。

 

1629(寛永6)

江戸幕府により「女歌舞伎」禁止。若衆歌舞伎がはじまる。

 

1634(寛永11)

現在の日本橋人形町3丁目に、村山又三郎が「村山座」を立ち上げる。*1652(承応元)に市村羽左衛門が興行権を買い取り「市村座」とした。

 

1642(寛永19)

現在の中央区銀座4丁目に、山村小兵衛(初代山村長太夫)が「山村座」を立ち上げる。

 

1648(正保5)

伊藤出羽掾「しんらんき」を上演して、本願寺から訴えられる。

現在の銀座5丁目に、初代河原崎権之助河原崎座を立ち上げる。

 

1651(慶安4)

竹本義太夫が生まれる。

 

1652(承応1)

江戸幕府により「若衆歌舞伎」禁止。

市村羽左衛門が村山座の興行権を買い取り「市村座」とした。

 

1653(承応2)

野郎歌舞伎が始まる。近松門左衛門が生まれる。

 

1660(万治3年)

宮古路豊後掾(都国太夫半中)生まれる。

初代市川團十郎が生まれる。

現在の銀座5丁目に、初代森田勘彌森田太郎兵衛)が「森田座」を立ち上げる。

 

1662(寛文1)

初代中村七三郎が生まれる。

 

1663(寛文3)

後継者不在のため、森田座が河原崎座を吸収合併。

 

1669(寛文9)

都越後掾(都万太夫)、芝居の興行権を免許され名代となる。京都四条に都万太夫座(現在に南座)を立ち上げる。

 

1675(延宝3)

宇治加賀掾が京都四条で人形芝居の一座を立ち上げる。

 

1683(天和3)

近松門左衛門が加賀掾のために「世継曽我」を書く。上演。

 

1684(貞享元)

竹本義太夫が大坂道頓堀に「竹本座」を開場して座本となる。この旗揚げとして「世継曽我」を上演。

 

1685(貞享2)

竹本義太夫が「出世景清」を上演。浄瑠璃の転換期となる。

初代市川團十郎が、従来の初期歌舞伎から存在する「荒武者事」と「金平浄瑠璃(坂田金時の息子・金平の武勇譚)」とを加味して「歌舞伎における荒事芸」を完成させる(金平六条通い)。

初代坂田藤十郎が、遊郭の通う美男子の若旦那が放蕩三昧の末、勘当されて、落ちぶれた姿で馴染の遊女のもとへ通うという「和事」を確立(やや同時期)。「廓文章(1808)」の原典に当たる「夕霧名残の正月」の藤屋伊左衛門を生涯で18回も演じる。

 

1686(貞享3)

竹本座上演の「佐々木大鑑」で、初めて「近松門左衛門」の名を出す(それまでは狂言作者の名を面に出す慣例がなかった)。

 

1688(元禄1)

二代目市川團十郎が生まれる。初代團十郎が成田山新勝寺(成田不動)に子宝の願をかけたところ見事生れた子だったので「不動の申し子」といわれた。

 

1693(元禄6)

これより10年ほど、近松は歌舞伎作者となり、都万太夫座(京都)に出勤。坂田藤十郎が得意とした「やつし」「長せりふ」を巧みに取り入れた芝居の台本を書くようになる(けいせい仏の原・けいせい壬生大念仏・けいせい浅間嶽など)。その後は浄瑠璃に戻ったが、歌舞伎作者として学んだ「歌舞伎の趣向」が「人形浄瑠璃」の作に生かされることになった。

初代市川團十郎、上洛して京都の舞台に出演するが評判は悪く、1年あまりで江戸に帰る。

 

1697(元禄10)

のちに歌舞伎十八番に加えられる「(しばらく)」が初演される。

 

1704(元禄17)

市川團十郎、市村座で、役者の生島半六(自身の息子が虐待を受けたことで團十郎を恨んでいた)に舞台上で刺殺される。

 

1708(宝永5)

訴訟により、浅草弾左衛門支配(江戸)からの独立を果たす。

 

1714(正徳4)

江島生島事件で山村座は官許取り消して廃座。以降「江戸三座」になる。

 

1721(享保6)

二代目市川團十郎が「千両役者」と呼ばれ大スターとなる。

 

1735(享保20)

借金返済で首が回らなくなって破綻して休座していた森田座の控え櫓として、二代目河原崎権之助が森田座代興行権を引き当て、河原崎座を復興。

 


ラスカルさん
中村座って「猿若座」だったんだね!
パンダくん
うん!市村座も「村山座」だったし。。。
レッサーさん
森田座も「守田座」になるんだよ!

 





レッサーさんの歌舞伎入門「大歌舞伎」のコーナー! 日本の伝統芸能で一番有名な歌舞伎! 日本人ならキチンと知っておきたいよね!

それでは、次回をお楽しみに!しば~ら~く~!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です