【大歌舞伎】歌舞伎の歴史⑦ 江戸四座→江戸三座

日本は伝統を大切にする国です。雅楽・能楽・文楽・歌舞伎。大きくカテゴライズしても、この4大ジャンルに分類できます。この中でも、1番歴史が浅いのですが、世界中で最も認知度が高いのがKABUKIです。庶民の娯楽としておよそ400年前に誕生してから、昭和40年には重要無形文化財に認定され、平成21年にはユネスコから世界無形文化遺産に登録され、現在まで続いています。

ラスカルさん
今日も楽しみながら歌舞伎を勉強しましょう!
パンダくん
うん!江戸三座って聞いたことがあるけど……!
レッサーさん
そう!以前は江戸四座だったんだね!

 





 


 

1603(慶長8)

徳川家康によって徳川幕府が開かれる。出雲阿国が京都で「阿国かぶき」という念仏踊りを踊りはじめる。

 

1629(寛永6)

江戸幕府により「女歌舞伎」禁止。若衆歌舞伎がはじまる。

 

1647(正保4)

初代坂田藤十郎が生まれる。

 

1648(正保5)

伊藤出羽掾「しんらんき」を上演して、本願寺から訴えられる。

 

1651(慶安4)

竹本義太夫が生まれる。

 

1652(承応1)

江戸幕府により「若衆歌舞伎」禁止。

 

1653(承応2)

野郎歌舞伎が始まる。近松門左衛門が生まれる。

 

1660(万治3年)

宮古路豊後掾(都国太夫半中)生まれる。

初代市川團十郎が生まれる。

 

1662(寛文1)

初代中村七三郎が生まれる。

 

1669(寛文9)

都越後掾(都万太夫)、芝居の興行権を免許され名代となる。京都四条に都万太夫座を立ち上げる。

 

1673(延宝元年)

芳沢あやめが生まれる。

 

1675(延宝3)

宇治加賀掾が京都四条で人形芝居の一座を立ち上げる。

 

1683(天和3)

近松門左衛門が加賀掾のために「世継曽我」を書く。上演。

 

1684(貞享元)

竹本義太夫が大坂道頓堀に竹本座を開場して座本となる。この旗揚げとして「世継曽我」を上演。

 

1685(貞享2)

竹本義太夫が「出世景清」を上演。浄瑠璃の転換期となる。

初代市川團十郎が、従来の初期歌舞伎から存在する「荒武者事」と「金平浄瑠璃(坂田金時の息子・金平の武勇譚)」とを加味して「歌舞伎における荒事芸」を完成させる(金平六条通い)。

初代坂田藤十郎が、遊郭の通う美男子の若旦那が放蕩三昧の末、勘当されて、落ちぶれた姿で馴染の遊女のもとへ通うという「和事」を確立(やや同時期)。「廓文章(1808)」の原典に当たる「夕霧名残の正月」の藤屋伊左衛門を生涯で18回も演じる。

 

1686(貞享3)

竹本座上演の「佐々木大鑑」で、初めて「近松門左衛門」の名を出す(それまでは狂言作者の名を面に出す慣例がなかった)。

 

1693(元禄6)

これより10年ほど、近松は歌舞伎作者となり、都万太夫座(京都)に出勤。坂田藤十郎が得意とした「やつし」「長せりふ」を巧みに取り入れた芝居の台本を書くようになる(けいせい仏の原・けいせい壬生大念仏・けいせい浅間嶽など)。その後は浄瑠璃に戻ったが、歌舞伎作者として学んだ「歌舞伎の趣向」が「人形浄瑠璃」の作に生かされることになった。

初代市川團十郎、上洛して京都の舞台に出演するが評判は悪く、1年あまりで江戸に帰る。

 

1697(元禄10)

のちに歌舞伎十八番に加えられる「(しばらく)」が初演される。

 

1698(元禄11)

京の早雲座で「けいせい浅間嶽」が初演される。坂田藤十郎(51歳)・芳沢あやめ(25歳)が初演。

 

1704(元禄17)

市川團十郎、市村座で、役者の生島半六(自身の息子が虐待を受けたことで團十郎を恨んでいた)に舞台上で刺殺される。

 

1708年(宝永5年)

訴訟により、浅草弾左衛門支配(江戸)からの独立を果たす。

 

生島半六が登場したので、江戸三座について説明したいと思います。江戸三座は、江戸町奉行所によって歌舞伎興行を許された芝居小屋です。官許三座公許三座とも言われています。出雲阿国、刺激されて誕生した女歌舞伎、禁止されて台頭した若衆歌舞伎、それらの時代は寺院の境内や河原などで行なっていましたが、江戸府内に常設の芝居小屋(猿若座)ができたのは早くも寛永元年(1624年)のことでした。

 

中村座・市村座・山村座・森田座。あれれ? 江戸三座なのに4つあるのはオカシイですね。いえいえ。当時は幕府に「櫓をあげる」ことが官許(公許)された芝居小屋は4つあったのです。つまり江戸四座でした。

 

ちなみにとは、人ひとりが乗れるほどの籠のような骨組みに、2本の梵天と5本の槍を組み合わせ、それを座の定紋を染め抜いた幕で囲った構築物です。芝居小屋の入口上方に取り付けられた櫓で、昔は人寄せの太鼓を叩いていました。

 

この「櫓をあげていること=官許の芝居小屋」であることの証で、逆に櫓のない芝居小屋は宮地芝居と呼ばれ、簡略な小屋掛けであること、舞台の上以外には屋根をつけない、引幕・回り舞台・花道などの装置を使わないなど、さまざまな制限が設けられていました。

 

堺町(現在の日本橋人形町3丁目)の「中村座」と葺屋町(現在の日本橋人形町3丁目)の「市村座」は、同じ通りに面した目と鼻の先に建っていました。また、界隈には他にも小芝居の玉川座、古浄瑠璃の薩摩座、人形劇の結城座などが軒を連ねていたので、この一帯には芝居茶屋、役者や芝居関係者の住居がひしめき、一大芝居町を形成していました。

 

さらに、山村小兵衛(初代山村長太夫)が木挽町4丁目(現在の中央区銀座4丁目)に櫓をあげ、山村座としました。続いて、初代河原崎権之助が木挽町5丁目(現在の銀座5丁目)に櫓をあげ、これを河原崎座とし、さらに森田太郎兵衛がやはり木挽町5丁目に櫓をあげ、これを森田座としました。このように木挽町4・5丁目界隈にも芝居茶屋や芝居関係者の住居が軒を連ね、一時は堺町・葺屋町に匹敵する芝居町を形成していたので「木挽町へ行く」と言えば「芝居見物に出かける」ことを意味するほどの盛況だったのです。この山村座・河原崎座・森田座の三座を、木挽町三座とも言います。

 

まとめると、日本橋人形町3丁目界隈(堺町・葺屋町)には「中村座」「市村座」、中央区銀座4~5丁目界隈には「山村座」「河原崎座(のちに森田座の控え櫓)」「森田座」を中心に、茶屋や芝居関係者で構成された芝居町があったことになります。

 

しかし……姐さん、事件です。(続く)

 


ラスカルさん
江戸三座って何か言える!?
パンダくん
うん!中村座・市村座・森田座だね!
レッサーさん
江戸四座は、山村座を含めたものだよ!

 





レッサーさんの歌舞伎入門「大歌舞伎」のコーナー! 日本の伝統芸能で一番有名な歌舞伎! 日本人ならキチンと知っておきたいよね!

それでは、次回をお楽しみに!しば~ら~く~!

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