【大歌舞伎】歌舞伎の歴史④ 竹本義太夫と宮古路豊後掾

日本は伝統を大切にする国です。雅楽・能楽・文楽・歌舞伎。大きくカテゴライズしても、この4大ジャンルに分類できます。この中でも、1番歴史が浅いのですが、世界中で最も認知度が高いのがKABUKIです。庶民の娯楽としておよそ400年前に誕生してから、昭和40年には重要無形文化財に認定され、平成21年にはユネスコから世界無形文化遺産に登録され、現在まで続いています。

ラスカルさん
今日も楽しみながら歌舞伎を勉強しましょう!
パンダくん
うん!歌舞伎って奥が深いんだね!
レッサーさん
そう!でも、庶民の娯楽だから肩肘張らないようにね!

 





 


 

この竹本義太夫は、井上播磨掾の弟子である清水理太夫に入門し、播磨掾の芸風を学んだのちに京都に行き、「浄瑠璃に師匠なし、只謡を親と心得べし」と言った宇治加賀掾のもとで活躍します。

加賀掾は1675(延宝3)に京都四条で人形芝居の一座を立ち上げ、浄瑠璃を語っていた大先輩です。1683(天和3)に近松門左衛門が加賀掾のために書いた歌舞伎脚本「世継曽我」を、翌年1684(貞享元)年、義太夫が大坂道頓堀に竹本座を開場して座本となり、その旗揚げとして「世継曽我」を語って大好評を得ます。

これが近松と竹本義太夫とが関わりを持つようになった初めであり、翌年(1685・貞享2年)に前述(前の記事)の出世景清を語って大好評を得たのが、時代の転換期と言えるでしょう。

 

平安時代(前期)

当道座ができる。猿楽が成立する。傀儡子が登場。

 

鎌倉時代(中期)

平曲(平家物語+琵琶=平家琵琶)が成立する。

 

室町時代(後期)

浄瑠璃(浄瑠璃姫物語+琵琶)が成立する(戦国時代)。観阿弥・世阿弥親子が足利義満に支持される(南北朝時代)。傀儡子の流れをくむ「西宮の夷舁き」が登場。

 

安土桃山時代

三味線伝来。豊臣秀吉が淀殿のために作らせた三味線「淀」が最初。滝野検校・澤住検校が三味線を使用(浄瑠璃姫物語+三味線)。

 

江戸時代(初期)

杉山丹後掾・薩摩浄雲が江戸浄瑠璃開祖となる。門下から多くの浄瑠璃太夫が誕生し、上方・江戸でしのぎを削る。人形+浄瑠璃=人形浄瑠璃

 

1603(慶長8)

徳川家康によって徳川幕府が開かれる。出雲阿国が京都で「阿国かぶき」という念仏踊りをはじめる。

1629(寛永6)

江戸幕府により「女歌舞伎」禁止。若衆歌舞伎がはじまる。

 

1651(慶安4)

竹本義太夫が生まれる。

 

1652(承応1)

江戸幕府により「若衆歌舞伎」禁止。

 

1653(承応2)

野郎歌舞伎が始まる。近松門左衛門が生まれる。

 

1675(延宝3)

宇治加賀掾が京都四条で人形芝居の一座を立ち上げる。

 

1683(天和3)

近松門左衛門が加賀掾のために「世継曽我」を書く。上演。

 

1684(貞享元)

竹本義太夫が大坂道頓堀に竹本座を開場して座本となる。この旗揚げとして「世継曽我」を上演。

 

1685(貞享2)

竹本義太夫が「出世景清」を上演。浄瑠璃の転換期となる。

 

1686(貞享3)

竹本座上演の「佐々木大鑑」で、初めて「近松門左衛門」の名を出した(それまでは狂言作者の名を面に出す慣例がなかった)。

 

1693(元禄6年)

これより10年ほど、近松は歌舞伎作者となり、都万太夫座(京都・現在の南座)に出勤。坂田藤十郎が出る芝居の台本を書く。その後は浄瑠璃に戻ったが、歌舞伎作者として学んだ「歌舞伎の趣向」が「人形浄瑠璃」の作に生かされることになった。

 

さて、ここで1693(元禄6年)から10年ほど、近松門左衛門が歌舞伎作者となって、京都の都万太夫座で歌舞伎脚本を学びますが、この都万太夫とはどんな人だったのでしょうか。当流である新浄瑠璃「常磐津節」の系図には以下のようにあります。

 

初世家元  伊藤出羽掾(生没年不詳)

二世家元  岡本文弥(1633 – 1694)

三世家元  都越後掾(都万太夫)(生没年不詳)

四世家元  都一中(都太夫一中)(1650-1724)

五世家元  宮古路豊後掾(都国太夫半中)(1660-1740)

六世家元  初代常磐津文字太夫(1709-1781)

七世家元  二代目常磐津文字太夫(1731-1799)

 

これは、芸脈を古浄瑠璃にさかのぼって数えたもので、七世家元の二代目常磐津文字太夫の時代には、すでに布製の系図に書かれていた数え方です(東京芸術大学に現存)。二代目文字太夫は初代文字太夫の養子にはなっておらず、初代文字太夫妻から「一代限りの条件で家元を継承させる」というのが定説のため、初代文字太夫の時にはすでにこの数え方をしていたと思われます。

また、初代文字太夫は1746年に七回忌に際して浅草寺境内に養父である「宮古路豊後掾の慰霊碑」を建立したほどの実力者なので、この仮説のより有力な裏付けになるでしょう。

 

それでは常磐津家元(初代)から「都万太夫」について考えていきましょう。

 

常磐津家元(初代)は伊藤出羽掾藤原信勝(初代岡本文弥)という出羽座(大阪で最古の芝居小屋)の座本を兼ねた古浄瑠璃の太夫です。大坂で最初の浄瑠璃太夫といわれ、道頓堀を拠点に操り芝居を興行します。カラクリや糸繰りを駆使した舞台演出は特に人気を呼び、大阪名物とまで言われ、1648(正保5)年に「しんらんき」を上演して、本願寺から訴えられたりしました。

初めは勇壮な金平物(金平浄瑠璃)、後には哀調を帯びた説経浄瑠璃を得意とし、1661-81を最盛期として井上播磨掾(芸脈で見ると義太夫節の祖父)と芸を競い合います。

 

門下には世話浄瑠璃元祖とも言われる「文弥泣き節」で好評を得た二代目岡本文弥(二代目常磐津家元)、山本土佐掾、山本飛騨掾らがいます。二代目岡本文弥から都越後掾(みやこえちごのじょう)へと芸脈が受け継がれて、彼は1669(寛文9)に芝居の興行権を免許され名代(太夫元と同意)となり、京都四条に都万太夫座を創立しました。坂田藤十郎、近松門左衛門と組み、元禄期に全盛をむかえます。この名代は明治39年に松竹に買収されて南座と改称するまで続きました。ちなみにこの都万太夫に師事して一中節を興したのが都太夫一中で、その弟子が宮古路豊後掾となる「都国太夫半中」です。

 


ラスカルさん
浄瑠璃と歌舞伎はは切っても切り離せない、ご縁があるね!
パンダくん
うん!ちょうど人形浄瑠璃と歌舞伎が成立したのが同じ時期!
レッサーさん
戦乱がおさまって徳川幕府が開かれた時に花開いた、代表的な江戸文化なんだね!

 





レッサーさんの歌舞伎入門「大歌舞伎」のコーナー! 日本の伝統芸能で一番有名な歌舞伎! 日本人ならキチンと知っておきたいよね!

それでは、次回をお楽しみに!しば~ら~く~!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です